初級翻訳・楽聖物語 第11話

楽聖物語

この隠遁生活のような落ち着いた地位に対し、ハイドンは時折「イタリアへ飛んで行きたい」という熱い望みを抱くこともありましたが、ニコラウス侯爵の厚遇によってそれは叶わず、うかうかと三十年の歳月が過ぎ去ってしまったのです。

エステルハツィの宮殿は豪華絢爛で、楽団員たちはこの上なく優遇されていました。ただ宮廷のルールが厳しかったため、楽団員たちはなかなか休暇をもらえず、訪ねてくる家族も一昼夜以上は滞在させることができなかったのです。ハイドンは、こうした楽団員たちの淋しさや悩みをなんとか伝えようと、有名な「告別交響曲」を作ったと言われています。
曲が第四楽章のフィナーレに入ると、自分の出番を終えた楽団員たちは、一人、また一人と、譜面台の上の蝋燭を吹き消してステージから去っていきます。最後には第一ヴァイオリン奏者二人と指揮者だけが残り、哀愁漂う旋律の中で曲が終わるという構成です。
ステージから人がいなくなっていく様子は、見ているだけでも本当に淋しく、気が滅入ってしまうほどでした。
聡明なエステルハツィ侯爵は、ハイドンが曲に込めた「楽団員たちを帰郷させてあげてほしい」という遠回しなメッセージをすぐに悟り、楽団員たちに休暇を与えたのは言うまでもありません。

ハイドンのいたずら好きな性格は、幼い頃にマリア・テレジアにお仕置きされて以来、死ぬまでずっと続いていました。
冗談が好きで、陽気で、邪念のないハイドンは、子供好きとしても有名でした。
街を歩けば、大勢の子供たちがハイドンの後ろからついてきて、離れようとしなかったほどです。
ある日のこと、ハイドンは町の玩具屋へ行き、音の鳴るおもちゃをありったけ買い込みました。そして、それを自分の楽団員たちに配って、新作の交響曲を演奏させたのです。
楽団員たちが驚いて仰天したのも無理はありません。
本物の楽器はヴァイオリンとコントラバスが一本ずつあるだけで、あとはデンデン太鼓や鳩笛、ガラガラといったおもちゃばかりだったからです。しかし、その効果は想像以上に素晴らしく、子供のような純粋な心に通じる、前代未聞の見事な芸術作品となりました。
今日に伝わるハイドンの「玩具交響曲」は、こうして生まれたのです。

光は彼方より

一七九〇年、ニコラウス侯爵が亡くなると、ハイドンは二千フロリンの年金を約束されて、エステルハツィ家を去ることになりました。
一七六一年から数えて実に三十年。ハイドンは五十九歳にして、ようやく自由の身となったのです。
実はそのずっと前から、イギリスへ行くことを勧めていた興行主のサロモンという人物がいました。ある朝、ハイドンが剃刀の切れ味の悪さにイライラして、「良い剃刀を持ってきてくれる人がいたら、私の一番いい四重奏曲をあげよう」とこぼしたのを聞き逃さず、サロモンは急いで宿へ戻り、自分の剃刀を持ってきてあげたそうです。そのお礼に、ハイドンは彼に四重奏曲の出版権を譲ったという逸話があります。
世間で「剃刀四重奏曲」と呼ばれているのは、この時の曲のことです。
そんな縁もあり、ハイドンはサロモンの誘いを受けてロンドンへ行くことを決心し、一七九〇年の暮れにウィーンを出発。翌年の正月にはロンドンへ初お目見えを果たしました。
ロンドンでの歓迎ぶりは、想像をはるかに超えるものでした。
ハイドンはオックスフォード大学から贈られた博士号のお礼として「オックスフォード交響曲」を作曲し、自ら指揮を執りました。
翌年、ハイドンは数々の名誉と名声を手にしてウィーンの新居へ帰りました。イギリスでついた箔(はく)はウィーンでも大きな影響を及ぼし、ウィーンの人々は「我らが大作曲家がロンドンで作った交響曲を聴こう!」とこぞって押し寄せたのです。

一七九四年、六十三歳になったハイドンは、再びロンドンを訪れました。
かつてはエステルハツィ家の地方的な存在に過ぎなかったハイドンは、今や世界的な名声と人気を背負い、颯爽とステージに立ったのです。
そこで六つの交響曲が作曲され、「軍隊交響曲」などが指揮されました。
ハイドンがサロモンの要望に応えて作曲した「サロモン・セット」と呼ばれる一連の交響曲には、素晴らしい傑作が多く含まれています。晩年になってもますます盛んなハイドンの、全才能が燃え尽きるほどに注ぎ込まれた作品群と言えるでしょう。
中でもサロモン・セットの三番目、「ト長調の交響曲」は「驚愕(びっくり)交響曲」とも呼ばれ、ハイドンの無邪気な逸話を伝えています。
当時の演奏会のプログラムは、今日のものよりもずっと長くて退屈なものが多く、貴族の男女が曲の途中でうとうとと居眠りをするのが当たり前でした。
ハイドンは、この交響曲の第二楽章、眠りを誘うような穏やかな曲の途中で、いきなりオーケストラ全員で「ドカン!」と大きな音を鳴らし、聴衆の眠りを驚かせて楽しんだと伝えられています。
今の時代の感覚で見れば、決して驚くほどの大変化ではありません。しかし、十八世紀末のイギリスの宮廷の、どこかのんびりとした空気がしのばれて面白いエピソードです。

二度目のロンドン滞在中、サロモンから二つのオラトリオの台本をもらったことや、ヘンデルの「救世主」を聴いた時の感激が、ハイドンに一代の名作「天地創造」を作らせるきっかけとなりました。
ヘンデルの「救世主」を聴いたハイドンは涙を流し、「ヘンデルこそ最大の音楽家だ」と言ったと伝えられています。
正直で善良なハイドンの魂がヘンデルの音楽に刺激され、最後の大飛躍を遂げたことは想像に難くありません。
ロンドンから帰国すると、ハイドンはサロモンから受け取ったミルトンの「失楽園」の歌詞に手を加えてドイツ語訳させ、生涯の情熱を注ぎ込んで作曲に取りかかりました。
「この曲を作っている時ほど、自分が神を敬う気持ちでいっぱいだったことはない」というハイドンの言葉は、まさにその通りだったのでしょう。
このオラトリオの、敬虔で雄大で美しい響きは、古今東西、ヘンデルの「救世主」と並び称されるほどで、どれほど多くの人々の心の糧となったか分かりません。
続いて「四季」や「十字架上のキリストの最後の七つの言葉」などが作曲され、音楽家ハイドンの輝かしい仕事は幕を閉じました。
長い隠居生活の末、一八〇八年、七十七歳になったハイドンは、自作「天地創造」の演奏会に姿を現しました。
それは、老いた偉大な作曲家にとって、最後の思い出となったのです。ひじ掛け椅子に座ったまま会場へ運ばれたハイドンは、演奏が進むにつれて次第に興奮が高まり、「そこに光ぞ現れける」という一節になったとき、感動のあまり立ち上がって空の一角を指さし、「彼方より!」と叫んで意識を失ってしまいました。
その後、病床で過ごすことが多くなったハイドンですが、翌一八〇九年五月、フランス軍がウィーンに攻め込んできて、ハイドンの家の近くに大砲の弾が落ちてきたときのことです。彼はわざわざ起き上がって着物を着替えさせ、「恐れることはない。ここにハイドンがいる限り、何事も起こる心配はない」と言いながら、ピアノの前に座り、自分で作ったオーストリア国歌を三回繰り返して弾きました。

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