シュヴァイツァー博士以外では、ビクターのデュプレによる優れたレコードがあります。
なお、オルガン曲を他の楽器用に編曲したものは、ここでは取り上げません。
父ハイドン
「父ハイドン」という言葉があります。
この言葉が持つ柔らかな手触りと、あふれんばかりの親しみやすさは、ヨーゼフ・ハイドンの人柄や、彼の音楽の性質に、何の誇張もなく、食い違いもなく、ぴったりと当てはまるものでしょう。
ハイドンの音楽の素晴らしさは、その温かい愛情と、純粋な形式から生まれています。そこには、ロマン派音楽に見られるような無意味な誇張や感情の爆発はなく、近代音楽にありがちな個性の主張や、どこか暗く鬱陶しい雰囲気もありません。
そこにあるのは、整った形式と美しい旋律、そして誰にでも語りかけ、どんな時でも私たちの心を和ませずにはおかない、優しい愛情だけなのです。
私個人の話をさせてもらうなら、仕事に疲れたとき、思い通りにいかないとき、悲しみに包まれるとき、ハイドンの音楽ほど私たちを慰めてくれるものはありません。
私はハイドンの室内楽(特に弦楽四重奏曲)のレコードをいつも手元に置いておき、父ハイドンの慈愛に満ちた音楽を生活の中に取り入れることで、日々の心の平穏を保っています。
これはレコードという技術の恩恵であると同時に、ハイドンの音楽が持つ本当の喜びでもあります。
ハイドンの音楽には、目を見張るような派手さや爆発的な勢いはありませんが、その穏やかさと健康的な響きこそが、私たちにとって最も良い心の友となってくれるはずです。
若かりし日の苦労
ヨーゼフ・ハイドン(Franz Josef Haydn)は、1732年3月31日から4月1日にかけての夜、ハンブルクから四里ほど離れたローラウという町で生まれました。
祖父の代から車作りを営む家系で、父のマシアスも母のマリアも、勤勉で清潔好き、そして熱心な信仰を持っていました。彼らは後のハイドンの素晴らしい性格と習慣を形作っただけでなく、宗教音楽史上の大きな山とも言えるオラトリオ「天地創造」を生んだハイドンの深い信仰心も、この敬虔な両親から受け継がれたものだと言われています。少年ハイドンの音楽の才能は、モーツァルトのように神がかった奇跡的なものではありませんでしたが、かなり早い時期から頭角を現していました。六歳のときには早くも遠縁の音楽家フランクの家に預けられ、基礎的な教育を受けました。そこでは「食事よりも鞭で叩かれることのほうが多かった」そうですが、それでも後の偉大なハイドンを形作る土台は、そこでしっかりと築かれたのです。
ウィーンの教会の少年合唱隊に入ったのは八歳のときで、しばらくの間、作曲家ロイターの指導のもとで音楽の修行を積みました。
マリア・テレジアの別荘に合唱団の一員として招かれた際には、元気いっぱいにいたずらをして、マリア・テレジア本人から「あの金髪の頭の大きい子」と名指しされ、お仕置きに鞭で叩かれたこともありました。
それから四十年以上の月日が流れ、エステルハツィ城で老女王マリア・テレジアと再会したとき、楽聖ハイドンはこのエピソードを本人に伝え、二人で大笑いしたということです。
一七四九年、声変わりが始まると教会の合唱隊を追い出されてしまい、十八歳の少年は着の身着のままで街をさまよい歩くことになりました。
空腹と寒さに苦しめられ、町のベンチで夜を明かしたり、友人に見つけられてその貧しい家に居候させてもらったりしたこともありました。
両親はそれを聞いて心を痛めましたが、貧しい車大工である彼らにはどうすることもできず、「牧師になって苦境を切り抜けるように」と勧めるのが精一杯でした。
しかしハイドンは、お腹いっぱいに食べたいという切実な欲求に駆られながらも、さすがにそのためだけに牧師になる気にはなれませんでした。
ハイドンは流浪の身のある日、ある教会の合唱団長に採用を断られてしまったことがありました。そこで、人知れず合唱団の列に混じり、いざ独唱という場面で、本来の独唱者の手から楽譜を奪い取って、朗々と歌い出したのです。
お腹はひどく空いていましたが、歌声は正確で美しく、表情も豊かでした。
指揮者も合唱メンバーたちもこれには驚きましたが、その見事な歌声に圧倒されて心からの拍手を送りました。おかげでハイドンは、久しぶりのご馳走にありつき、お腹いっぱい食べることができたのです。
その頃、組紐業を営むブルフホルツという人がハイドンの困窮を哀れんで百五十フロリンを貸してくれましたが、後年ハイドンはその恩に報いるため、遺言状で指定してブルフホルツの孫娘に遺産を分け与えました。
幸福な生涯
ハイドンは、音楽家としては珍しく幸福な人生を送った人でした。
友人に愛され、才能に恵まれ、生活も豊かで、長生きをしました。一つの仕事を失っても必ず次の仕事が用意され、その名声は階段を上るように少しずつ積み重なっていったのです。
その性格と耳の病気のために一生悩み続けたベートーヴェンや、その類まれな天才ゆえに不幸だったモーツァルトやシューベルトと比べると、なんと大きな違いでしょう。
そんなハイドンにも、生涯に二つだけ不幸がありました。
一つは夫人が有名な「じゃじゃ馬」であったこと、もう一つは青年時代に一度だけ味わった失職の苦しみです。
しかし、その苦労も決して長くは続きませんでした。
作曲家ボルボラの助手として作曲に励み、二十六歳の頃にはモルツィン伯の礼拝堂で音楽長を務め、最初の交響曲を作曲していました。
二十八歳の時、ハイドンはマリア・アンナ・アロイジア・アッポロニアと結婚しました。
それはハイドンにとって、一生の不運を背負い込むような不幸の始まりでした。
もともとハイドンはマリアの妹に恋をしていましたが、妹はハイドンの愛を受け入れずに修道院へ入ってしまいました。そのため、小説のような流れで、愛してもいない三歳年上の姉マリアと結婚することになったのです。
妻のマリアは頑固で虚栄心が強く、芸術には全く理解がありませんでした。夫のハイドンに「彼女にとっては、夫が靴屋であろうと芸術家であろうと違いはないのだ」と嘆かせたほどでしたが、人の良いハイドンは、四十年間この不愉快な妻のそばでじっと我慢し続けました。
翌年、ハイドンはアイゼンシュタットのエステルハツィ侯爵に招かれて礼拝堂の第二音楽長となり、人生の半分を捧げることになる地位に就きました。
翌一七六二年、侯爵が亡くなり弟のニコラウスが跡を継ぎました。このニコラウスは派手好きで寛大、そして音楽を愛する人物でした。彼は心からハイドンを重用し、次第にその地位を引き上げ、やがて第一音楽長として、ハイドンに三十年もの長い生活の基盤をそこに築かせたのです。
ハンガリーでの三十年間の生活は、ハイドンをウィーンの音楽界の中心から遠ざけましたが、その代わり生活は安定し、作品は印刷され、その名声は非常にゆっくりではありましたが、着実にヨーロッパ全土へと広がっていきました。
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