映画『未完成交響楽』はこのハンガリー時代のシューベルトを題材に、物語を面白く脚色したものですが、実際にはシューベルトの相手をするには、二人の令嬢は少し若すぎたのかもしれません。
シューベルトのハンガリー時代は、そう長くは続きませんでした。その後数年間、ウィーンでどうやって暮らしていたのか、シューベルトの経済生活には時折謎が残ります。出版社は「売れない流行作家の作品を出すので忙しい」という口実で、シューベルトの12曲をわずか160フロリンで買い叩きましたが、シューベルトは文句も言えませんでした。その中の「さすらい人」という曲一曲だけでも、出版社はその後の40年間で2万7千フロリンもの利益を上げたのです。一生の傑作である歌曲集「冬の旅」の24曲も、1曲わずか1フロリンで買い取られました。まるで宝石をゴミのような値段で手放すようなものですが、出版社はそれさえも恩着せがましく振る舞ったのです。
窮乏と困苦の年は続きました。シューベルトは生粋のウィーンっ子で、金持ちや貴族に取り入って楽な暮らしをする術を知りませんでした。あらゆる賞賛や注目から身を引き、いつも貧しい友人たちの中に混じって、穏やかに暮らしていたのです。
シューベルトの弱気な性格は並外れていましたが、彼にとってベートーヴェンへの憧れもまた、近づきがたい特別なものでした。一人でこの大作曲家を訪ねるなど思いもよらず、1822年に楽譜屋さんに連れて行ってもらってようやく対面しましたが、ベートーヴェンが鉛筆と紙を差し出してくれたのに、緊張のあまり一言も書くことができませんでした。ベートーヴェンはシューベルトが持ってきた作品に目を通し、和音のミスを2、3指摘しましたが、若きシューベルトはそれだけでいたたまれなくなり、コソコソと逃げ出してしまいました。
しかし、ベートーヴェンはその曲を気に入り、甥のカールに演奏して聴かせ、「シューベルトは神聖な火を持っている」と語っていました。5年後、シューベルトが再び訪ねたとき、ベートーヴェンはすでに死の床にあり、言葉も交わせない状態でした。シューベルトは瀕死の巨匠を眺め、手を組んだまま一言も発さず、涙を浮かべて帰りました。それから14日後、ベートーヴェンは亡くなりました。シューベルトは38人の松明持ちの一人として棺の側に立ち、この巨人の旅立ちを見送りましたが、その頃からシューベルト自身の健康もまた、目に見えて衰えていったのです。翌1828年の夏、シューベルトはひどいめまいと頭痛に悩まされるようになりました。医者の勧めで郊外へ移り住みましたが、10月末のある日、友人と夕食を食べていたときのことです。「食べるものが毒のように感じられる」と言って、彼はナイフとフォークを投げ出してしまいました。
それが、彼の命を奪う病気の始まりだったのです。
11月に入ると、11日間も何も喉を通らない日がありました。
ベッドから椅子まで移動して、またふらふらと戻るのが精一杯だと友人に書き送っていましたが、その数日後には高熱に倒れ、11月19日、「僕はもう地上にはいられない。ここにはベートーヴェンがいないのだから」と言い残して、この世を去りました。
ヘンリー・フィンクが語ったように、それは「お金さえあれば、もっと伸ばすことができた命」だったのかもしれません。
遺言によって、彼はベートーヴェンの墓のすぐ側に葬られました。それが、31歳という若さで旅立った、稀代の天才にとってのせめてもの慰めであったことでしょう。
彼が遺した持ち物は、古い靴や古びたベッド、古いズボンなどで、価値にしてわずか63フロリンと見積もられました。
そのガラクタの中に、不朽の名作であるハ長調の「交響曲」の手書き譜が紛れていたのは、あまりにも痛ましく、皮肉な現実でした。
天才の奇蹟
シューベルトの貧しさと、その人間としての素晴らしさについては、これまで書き記してきました。
最後に私は、最も重要な特質である「天才の奇蹟」と、彼が音楽界に残した功績、とりわけドイツ歌曲というジャンルを確立した画期的な偉業について、少しばかり書き添えておかなければなりません。
シューベルトの天才ぶりは、まさに人間離れしたものでした。
あるとき、友人たちと郊外へ散歩に出かけ、居酒屋でひと休みしていたときのことです。彼は棚にあったシェークスピア全集の中から詩を見つけ、「素晴らしいメロディが浮かんだけれど、五線紙がないかなあ」と言い出しました。
友人がメニューの裏に鉛筆で五線を引いてやると、その上にさらさらと書き上げたのが、有名な名曲「聴け聴け雲雀」でした。
夜中に曲が浮かんだとき、すぐに飛び起きて書けるように、シューベルトは眼鏡をかけたまま寝る習慣がありました。一つには、単に面倒くさがりだったという理由もありましたが。
ある夜、夢中で「鱒」の曲を書いたとき、砂壺(インクを乾かす砂入れ)とインク壺を間違えて、楽譜の上にインクをぶちまけてしまいました。その楽譜は、今日まで残る貴重な遺品となっています。
「一寸法師」は友人と話しながら書き上げ、「美しき水車小屋の乙女」は、友人の家を訪ねてその留守の間に読んだミュラーの詩に魅せられ、詩集を無断で借りてきて作曲したものでした。
この溢れ出る天才の奇蹟は、第一交響曲を完成させるのに10年をかけ、第九交響曲の合唱部の主題を30年もノートに温め続けたベートーヴェンの努力家ぶりと比べると、なんとも興味深い対照をなしています。
シューベルトは詩から詩へ、メロディからメロディへと、次々と心を移していきました。
一つの曲を書き終えると、ケロリと忘れて次の曲に取りかかるのが、彼のいつものやり方だったのです。
歌手の友人フォーグルが、シューベルトが作曲した歌に少し手直しをして、二週間後に持って見せたときのことです。「これはなかなか悪くないね。誰の曲だい?」とシューベルトは言いました。
自分の曲であることを、すっかり忘れていたのです。
シューベルトは霊感のままに、奔流のように作曲を続けました。18年間で1,200曲もの作品を生み出したのは、名誉やお金のためでは決してありませんでした。
傑作中の傑作といわれる歌曲集「冬の旅」24曲を作曲したときのことについて、親友のシュパウンはこう書き残しています。
「シューベルトはひどく気むずかしく、沈み込んでいた。
どうしたのかと尋ねると、『今に分かるよ』とだけ言った。
ある日、シューベルトはショオベルの家へ行き、『冬の旅』の24曲すべてを歌って聴かせてくれた。
僕たちは、その歌のあまりの陰惨さにただ呆然とするばかりだった。
ショオベルが『菩提樹という曲だけは気に入ったよ』と言うと、シューベルトは『僕は自分が作った他のどんな歌よりも、この曲集全体が好きなんだ。いつか君たちも好きになる時が来るよ』と答えた」
なんという悲しい自信だったことでしょう。「冬の旅」という24の輝く夜光の珠のような作品は、作曲された当時、親友たちにさえ理解されなかったのです。
しかし、シューベルトの「いつか君たちも好きになる時が来る」という言葉は見事に的中しました。
「冬の旅」24曲に勝る歌が、この世に果たしてあるでしょうか。
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