初級翻訳・楽聖物語 第62話

楽聖物語

コロムビアから出ているロート弦楽四重奏団の演奏(JW257-9)は、少しあっさりとしていますが、とても良い演奏です。また、レナー四重奏団による録音もあります。

「ピアノ三重奏曲 ホ短調(ドゥムキー)」も憂鬱な響きで有名な名曲ですが、エリー・ナイ三重奏団(ポリドール45262-5)のレコード以上に優れたものは見当たりません。

「ピアノ五重奏曲 イ長調(作品81)」には、シュナーベルとプロ・アルテ四重奏団による録音(ビクターJD334-7)があります。非常に立派な演奏ですが、どこか少し気分が乗っていないような印象も受けます。

その他の作品について
管弦楽曲には、序曲「謝肉祭」や「スラヴ舞曲」などがあります。
「スラヴ舞曲」は、ターリッヒ指揮のチェコのオーケストラによる録音が多く出ています(ビクターJH149-52、JK46-50)。独特の土地の空気感が感じられ、演奏の質も申し分ありません。
「ユモレスク」はヴァイオリン用に編曲されたものがよく知られています。「インディアン・ラメント」と同様に、これといえばやはりクライスラーの演奏ですね。

印象派の勝利 ドビュッシー

クロード・ドビュッシーは、それまでの古い音楽のルールから、芸術を決定的に解き放ちました。
フランスにおける「印象主義」という新しい音楽を始めた人という意味で、ドビュッシーはしばしば画家のマネやモネと比較されます。しかし、それは間違いではないにしても、少し比べる対象のレベルが違うのではないでしょうか。音楽の世界におけるドビュッシーの功績は、絵画の世界におけるマネやモネの功績よりもはるかに革新的であり、その作品もまた、比べものにならないほど魅力的だからです。

ドビュッシーの音楽の特徴として、おおまかに「形式にとらわれない絶対的な自由さ」「下品なものを嫌う神経質なまでのこだわり」「響きの重なり(和声)をどこまでも突き詰める探究心」の3つが挙げられます。
彼の音楽には、伝統的な形式や、決まりきったバランスなど一つもありません。彼はあらゆる音楽のしがらみを投げ捨て、誰にも縛られず、自由に振る舞うことを選んだのです。古い形式はすべて捨て去られ、彼自身のユニークな感性の上に、堂々と新しい音楽が築かれました。

ドビュッシーの音楽には、大げさな身振りで、皆の予想通りに帰ってくるようなメロディは一つもありません。その代わり、煙のようにぼんやりとした音の響き――柔らかな和音の織物の上を、まるで花飾りの刺繍をほどこすようにして、今にも消えてしまいそうなメロディが流れていくのです。そこには、ワグナーのような圧倒的な有頂天さも、フランクのような理屈っぽい要素も、ロマン派の作曲家たちが見せた芝居がかった情熱もありません。
洗練された近代フランス人特有の「憂鬱(ゆううつ)な朗らかさ」が、空気のように軽く、アブのように鮮やかで、夢のように儚(はかな)く動き回るのです。
印象主義の勝利までには多くの苦難がありましたが、彼はこうして近代音楽の上に、ベートーヴェン以来となる大きな歴史の転換点を作り、次の時代へ向かうための大きな道しるべとなったのでした。

理解されなかった彼

ドビュッシー(クロード・アシル・ドビュッシー)は、1862年8月22日、パリの郊外に生まれました。
初めての教育は母親から受けました。学校らしい学校には行かず、家も決して音楽一家というわけではありませんでしたが、7歳のときにカンヌへ旅行した際、叔母のルウスタン夫人に音楽の才能を見出され、しばらくイタリア人の先生からピアノを教わったこともありました。

少年時代のドビュッシーは、勉強も遊びも好きではなく、今の言葉で言えば、決して「良い子」ではありませんでした。朝から晩まで夢見るように、ぼんやりと椅子に座り、何も言わずに過ごすことが多かったと言われています。
詩人ヴェルレーヌの義母モオテ夫人は、偶然にもショパンの弟子でした。彼女はドビュッシーの才能を見抜き、この子を船員にしようと決めていた父親を説得して、1873年、11歳のドビュッシーを何とか音楽院に入学させることに成功しました。

ドビュッシーの音楽学生生活は、少し変わったものでした。
音に対する並外れた感性は持っていましたが、ピアノの練習は好きではなく、先生からは「ピアノは嫌いなようだが、音楽そのものは好きなようだ」という不思議な評価を下されたりしました。ドビュッシーは手先が不器用で、しかも臆病な性格だったため、ピアニストには向いていなかったのです。その後、作曲の勉強へと進んでいきましたが、古い考え方の先生からはなかなか理解してもらえません。そのうえ、13、14歳の頃からは、貧しい家計を助けるために、他の家の子にピアノを教えるアルバイトをして時間を割かなければなりませんでした。

18歳のとき、先生のギローさんの好意でロシアへ旅行に行きました。そこで、チャイコフスキーのパトロンとして有名なメック夫人の屋敷に滞在し、ロシアの音楽家たちと知り合う機会を得ました。なかでも、ムーソルグスキーの音楽からは大きな影響を受けました。

その後、当時の流行でもあったワグナーの音楽に夢中になり、彼の足跡を追ってイタリアへ行ったりもしました。ドビュッシーといえども、当時のワグナー熱から完全に離れて超然としていることは難しかったのでしょう。

1883年、先生のギローさんに勧められてローマ大賞に応募し、有名な交声曲「蕩児」で見事一等賞を獲得しました。当然の結果としてローマへ留学することになりましたが、気の毒なことに、ここで苦い幻滅を味わうことになります。アカデミー的な平凡さにおぼれるヴィラ・メディチの空気にどうしても我慢ができず、1887年にはついにパリへ帰ってしまいました。
留学の成果として「春」と「選ばれたる乙女」という作品を提出しましたが、後者は「管弦楽にあるまじき嬰ヘ長調」で書かれているという理由で拒絶され、「春」の方はドビュッシー自身が提出を取り下げてしまいました。

目覚ましい勝利

パリに帰ってからのドビュッシーは、様々な分野の友人たちと交流して教養を深め、作品も少しずつ世間に発表されるようになりました。
それらは商業的な成功には結びつかなかったため、ドビュッシー自身の持ち出しで出版しなければなりませんでしたが、それでも彼が社会と関わる範囲は次第に広がっていきました。

1894年、「牧神の午後」が国民音楽協会で演奏され、ドビュッシーは初めて成功の光を見ることになります。批評家たちは戸惑いながらも、控えめに褒めざるを得ませんでした。
1902年には楽劇「ペレアスとメリザンド」が初演され、ドビュッシーの勝利を決定的なものにしました。これより10年前の1892年、メーテルリンクの原作を読んで感動した彼は、作者を訪ねて作曲の承諾を得てから、実に10年もの歳月をかけて完成させたのです。
その演奏は音楽界に大きな旋風を巻き起こしました。原作者のメーテルリンクは、個人的な感情のもつれから新聞に公開状を載せて非難しましたが、ドビュッシーの勝利はそれによって少しも揺らぐことはありませんでした。

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