ショパンのピアノ曲を選ぼうと思ったら、原則としてコルトーの演奏を選んでおけば間違いありません。
そこに、パデレフスキ、ブライロフスキー、ルービンシュタインの演奏を少し加えていくのが良いでしょう。
ゴドウスキーもとても上手なピアニストでしたが、レコードに残っているものは、彼が年を取りすぎてからのものなので少し残念です。
それから、「パハマン選集」(即興曲第2番、夜想曲作品27-2、作品72-1、マズルカ作品24-4、作品50-2、作品63-3、作品67-4、ポロネーズ作品26-1、円舞曲作品64-3)も、絶対に聞き逃してはいけない大切なものです。
もうおじいさんになってからの演奏ですが、この人の弾くショパンには、やはり不思議な美しさがあるのです。
パデレフスキのレコードと同じように、未来の世代にもずっと残していくべき宝物と言えるでしょう。
### 情熱のシューマン
おしゃれで粋なピアノ曲「謝肉祭」や、美しい歌曲集「詩人の恋」を作曲したロバート・シューマンこそ、19世紀の半ばにヨーロッパで大人気だった、ロマン派音楽の最も偉大な戦士であり、同時に純粋な心を持った騎士でもありました。
この人の一生と、すべての作品をこの短いページの中で紹介するのはとても難しいことです。
ですから、私はシューマンの愛にあふれた生活と、その愛が形になったと言える、いくつかの作品についてお話しすることにします。
ロバート・シューマンは、1810年6月にドイツのサクソニーという町で、本屋さんの子供として生まれました。そして1856年7月に、精神病院の一室で亡くなりました。
彼の46年間の人生は、まさに血のにじむような戦いの連続だったと言っても過言ではありません。その戦いと苦しみ、そして狂気の中には、物語の中の天才のような、人間離れした特別なすごさなど少しもありません。
あくまで私たちと同じ地面に立ち、私たちと同じような生活を送るために戦い続け、まるで隣に住んでいる人のような親しみを感じさせてくれるのです。
### 少年ロマン主義者
シューマンの家族には、多くの有名な作曲家たちと違って、音楽家の血は少しも流れていませんでした。
その点はワグナーと同じです。二人とも、それまでの音楽界の古いルールを打ち破って、新しく、より命の輝きがある音楽を作るために戦い抜いたという点も、とてもよく似ています。
シューマンにとって音楽とは、先祖代々受け継いできた「家の仕事」ではなく、純粋に民族のものであり、人間のものであり、そして何よりも自分自身のためのものだったのです。
シューマンは19世紀のロマン派作曲家の中で、最も勉強熱心で、最も真面目で、そして最も芸術を大切にした人でした。
彼の人生に、天才にありがちな気まぐれな行動は一つもありませんでしたし、彼の作品にも、人気や世間の評判を気にして無理やり作ったと思えるものは一つもありません。
シューマンの伝記や作品に触れると、少し不器用なほど真面目な性格と、狂気の一歩手前まで自分を追い込んでしまった、張り詰めた心の重圧を感じずにはいられません。
それでは、彼の伝記を少し見ていきましょう。
少年時代のシューマンは、かなり早くから音楽への愛に目覚めていました。
友達と合奏したり、曲を作ったり、町の教会のオルガニストに教えてもらって、将来の大ピアニストを夢見たりしていました。9歳のときには、有名な巨匠モーシェレスの演奏を聴いて感動し、早くも「音楽の道で生きていくんだ!」と決心しました。しかし、15歳のときに父親が亡くなり、その夢は一度挫折してしまったのです。
シューマンのお母さんは、世間一般の親と同じように、この子を法律家にするつもりでいたのでした。しかし、十八歳で中学を卒業したシューマンは、バイロンやジャン・パウルの本をむさぼるように読み、心からロマン主義に染まっていました。
とりわけその年、友人と南ドイツへ旅行に出かけ、詩人ハイネを訪ねて会ったことは、シューマンの人生にとって大きな転換点となりました。
言うまでもなくハイネは、当時の大詩人であり、ロマン派の大きな柱でした。
その燃えるような情熱と、皮肉屋で聡明な人柄に、若いシューマンがすっかり夢中になってしまったのも無理はありません。
闘いの人シューマン
ライプチッヒで法律を学んでいるうちに、のちに彼の妻となるクララの父で、ピアノ教師として有名だったフリードリッヒ・ヴィークと知り合い、その家に出入りするようになりました。
その後、ハイデルベルク大学に転校しましたが、シューマンの心は法律から離れ、作曲とピアノの練習に夢中になっていました。ついにはヴィーク先生の力も借りてお母さんを説得し、法律の勉強をやめて、ライプチッヒに戻ることになったのです。
ヴィークの家に住み込み、ピアノの猛練習を続けたシューマンでしたが、あせりすぎて無理をしたせいか、指を痛めてしまい、ピアニストとして生きていく夢をあきらめなければなりませんでした。
しかし、これは野心に燃えていた若いシューマンにとって、不幸であると同時に幸福なことでもありました。
これをきっかけにシューマンは作曲に打ち込むようになり、彼自身は狂ってしまうほどの苦しみに耐えましたが、後世の私たちに、数え切れないほどの名曲(ピアノ曲、歌曲、室内楽曲、交響曲)を残してくれたからです。
二十三、四歳のシューマンは、いつの時代も絶えない流行り廃りばかりを追う音楽家たちを退け、音楽界に新鮮な空気と正しい意見を送り込むために、仲間と共に音楽雑誌を創刊しました。
この雑誌が音楽界に与えた影響はとても大きく、ピアノの詩人と呼ばれた天才ショパンを世の中に紹介しただけでなく、シューマンは二つのペンネームを使い分けて、古い音楽界に勇ましく挑戦していったのです。
この頃、シューマンはいくつかの素晴らしい作品を発表しました。
ピアノ曲「謝肉祭」などもその一つです。
当時、音楽界の中心人物だったメンデルスゾーンと知り合ったのも、クララへの愛が育ち、その父ヴィークに結婚を申し込んで、手痛い反対を受けたのもちょうどこの頃のことでした。
名媛クララ
これより少し前、シューマンがヴィークの家に出入りして、宝石のような愛娘クララを見出したのは、一八二八年、シューマン十八歳、クララはわずか九歳の時でした。
しかしクララは、その頃すでに天才少女ピアニストとして知られており、誰が見ても美しく気高く、それだけでなく非常に賢い少女でした。
今日、いろいろな記録や写真から想像しても、クララの優れた才能とその美しさが、驚くほど素晴らしいものだったことは間違いありません。
十三歳の時、シューマンの第一交響曲をピアノで演奏した頃から、シューマンの気持ちは少女クララへと燃え上がり、父ヴィークに連れられてヨーロッパ中を演奏旅行し、天才少女の名を轟かせていた頃には、二人の中に美しい愛情が芽生え、もう誰にも止められないほどに膨らんでいきました。
「愛するクララよ、私があなたをどんなに好きか知っていますか。では、さようなら。あなたのロバート・シューマンより」
と手紙を書いたのは一八三五年、シューマンが二十五歳、クララが十六歳の時のことでした。
コメント