初級翻訳・水中の怪人 第3話

山本 周五郎

雑貨店へ現れたとき、宙を掻くような奇怪な身振りをしたと言われていますが、これは店員に強い印象を与えるための仕草に違いありません。彼はこうして三度とも、ただ人の目を驚かせるため、また「河童」という噂を広めるために現れたのです。――そしてその評判が世間に広まった時、啓吉を誘拐したのである。
――彼は目的をはっきりさせた。
その目的を中心に調べていけば、河童の正体をつきとめることができるかもしれない。
――いや、必ずつきとめてみせる。
文吾は研究所を出ると、そのまま工場の製図部へと向かった。そこには津川が勤めていた頃の同僚がいるはずだ。
果たして文吾は、同じ机で働いていたという吉岡三郎という若い技手を見つけた。
「君は津川と一緒に働いていたんですね」
「そうです」
「津川とは仲良くしていましたか」
そう切り出して、津川が何か人には秘密の仕事をしていなかったか、変わったことでも見なかったかと尋ねた。
しかし吉岡技手は何も知らなかった。
「ただ時々、こんなことを言っていました」と最後に若い技手は言った。
「僕の名は、いまにきっと世界的になるよ。そして億万長者になってみせるって――訳は言いませんが、そんなことを二、三度聞きました」
「――それだけですね」
文吾は失望して工場を出た。
他にも津川を知っている者はいないかと探し回ったが、よほど用心深い男と見えて、親しく付き合っていた者は他に誰もいなかった。
つまり唯一の手がかりは、「僕はいまに億万長者になる」と言った言葉だけである。
二十二日の午後まで、まる二日の間、文吾は八方に駆け回った。けれどついになんの得るところもなかった。
そして「河童第一号」が命じた時間は、刻々と迫ってきた。
「私は設計図を守る!」
鹿島社長は悲痛な決意を示して言った。
「啓吉には可哀想だが、この設計図がもし外国人の手にでも渡るようなことがあると、私は売国奴と同じ結果になる。――私は啓吉をあきらめた。啓吉も喜んで死んでくれるだろう」
「社長、本当にそう決心なさいますか」
文吾がそう言ったとき、「いやです、兄さんを助けて!」と泣きながら良子が飛び込んできた。
「兄を死なせないで、平林さん、兄さんを助けて頂戴、兄さんを助けて!」
「良子さん、まあ落ち着いてください」
文吾は良子の肩を優しく引き寄せながら、鹿島社長の方へ振り返って言った。
「社長、あなたは啓吉君のことをあきらめるとおっしゃった。本当にその決心がおありなら、のるかそるか、僕がひと勝負してみましょう」
「何か方法があるか」
「脅迫状の通りにしてください。いや、設計図は偽物で結構です。反古紙(ほごがみ)でいいですから、油紙へ包んで空缶へ入れてください。――僕はその間に、ランチ(小型の連絡船)の用意をしておきます」
そう言って文吾は立ち上がった。
「良子さん、あなたも来るんですよ」
一時間後――。
社長親子と文吾、そして腕力の強い社員二人を乗せたランチは、明石町の河岸を離れて、約束の九時には月島五号地沖を静かに走っていた。
――舳先(へさき)に備えつけてある探照灯で辺りを照らしてみたが、付近には小舟ひとつ見えない。闇の海面は油を流したように黒々と凪(なぎ)いで、今にもぽっかりと怪物が現れはしないかと思われる不気味さだった。
「――この辺りでいいかな」
文吾はそう呟きながら、空缶を水面へ投げた。
空缶はゆらゆらと揺れながら漂っていく。ランチはその空缶へ探照灯の光を当てたまま、静かにそこから遠ざかり始めた。

あっ、河童だ!――意外な解決

文吾はランチの舳先に立ち上がった。透明な液体が入っている瓶をいくつか手に持ち、じっと空缶を睨んでいる。
――社長も良子も、胸苦しそうな表情で文吾が何をするのかと見守っていた。
空缶は探照灯の光を浴びて、しばらくゆらゆらと揺れていたが、そのうちにふいと、波の下から青黒い手が、あの水かきのある手が現れた。
「あっ、河童の手だ!」
と叫ぶ間に、その手は空缶を掴んだ。
刹那!
「――やっ!」と叫ぶと、文吾は瓶のひとつを力任せにその海面へ叩きつけた。
轟然!
凄まじい波の爆発! ニトログリセリンである。
文吾は続けざまに、持っている瓶を叩きつけた。それは空缶のあった海面を中心にして、円を描くように次々と大爆発を起こした。
――波は奔騰し、沸き返り、付近一帯は揉み返る海水で、石鹸を溶いてぶちまけたように泡立って狂った。
「ランチを突っ込め!」
文吾の命令に、ランチは泡立つ海面へ突進した。
「あっ河童、あそこに河童が!」
「こっちにも浮いた!」「河童だ、河童だ!」
ランチの上の人々は恐怖の叫びを上げた。
見よ、探照灯で照らされた海面へ、異形の怪物がぽかりぽかりと浮き上がってくる。
蒼黒くぬるぬる光る体、鰭(ひれ)のようなものがついている尖った頭、水かきのある手足……爆発の勢いで自由を失ったのだろう、海面へ浮上ったまま苦しそうにもがいている。
「ランチへ上げろ!」
文吾が大声で叫んだ。若い二人の社員は、その言葉に励まされたか、ランチが近づくと力を合わせて河童を引き上げた。全部で四人いました。
引き上げてみると、蒼黒くぬるぬるしていたものは、丈夫なゴム引きの布でした。
頭の後ろや背中、手足の一部にはヒレのようなものがついています。
指の間には水かきがありました。
そして尖った頭は、その布の下に、軽い金属でできた兜をかぶっていたのです。
文吾は手早く小刀を取り出すと、空き缶を右手に握りしめている一人の胸元に当て、その蒼黒い布をさっと切り裂きました。
そして、兜を脱がせました。
「まあ、あの人だわ!」良子が叫びました。
「――津川だ」社長も息を呑むように言いました。
――それは、「葵丸」の甲板で話しかけてきた、あの作業服の青年でした。
彼はふっと目を開けましたが、
「ああ、助けてください」と恐ろしそうに叫びました。
「啓吉君はお返しします。
助けてください、殺さないでください。
僕を許してください」
「言いなさい、啓吉君はどこにいる」
「正直に言います。
月島西仲通りにある僕の家にいます。
本当です。
どうか助けて」
文吾は津川の体を突き放して、
「ランチを隅田川へ回してくれ」と命じました。
一週間後の、ある朝のことです。
鹿島家の洋館のテラスで、社長をはじめ啓吉と良子の兄妹、そして文吾たちを前にして、津川重造はすっかり落ち着いた静かな調子で語っていました。
「――もうお分かりでしょうが、あれは僕が発明した『自由潜水服』です。
ご存知のように、潜水服というものは、つい最近までは原始的なものでした。
厚い服、大きな重い兜、鉛の靴、鉛の重り、そのうえ空気パイプが船とつながれていて、活動できるのは一定の範囲と深さに限られていました。
――それを改造したのが、ドイツのリュベッカーとドーラゲルエルクです。
この二人が作った潜水服は、呼吸に必要なガスを圧縮してタンクに詰め、両側の背負い袋に備えつけておいて、自動的にこのガスを混合しながら呼吸できるようにしたのです。
僕は、社長が水中砲の発明をされているのを知って、ふと、その砲を操縦するために、自由潜水服があったらと考えつきました。

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