初級翻訳・水菓子屋の要吉 第2話

木内 高音

するといつの間にか、田舎のお父さんや妹たちの顔が、それを囲んで珍しそうに見物しています。
――本当に、家族のみんなは、まだバナナさえ見たことがないんだ。
要吉は夢の中でそうつぶやきながら、ごろんと寝返りを打つと、昼間の疲れから、今度は夢も何も見ない深い眠りへと落ちていきました。

三

 朝のうちに店仕事が片づくと、要吉は自転車に乗って、あちこちの家へ御用聞きに出かけなければなりません。
 それはたいてい、大きな門構えのお屋敷ばかりでした。
 勝手口へ行くと、どこの家でもたいてい女中さんが出てくるのでした。
「それじゃあね、イチゴを二箱と、それから何か珍しいものがあったら、いつもの量くらい届けてちょうだい」
 そんなふうに、大らかな注文をする家が多かったのです。
 要吉はそれをひとつひとつ、小さな手帳に書き留めました。
 午後になって配達が済むと、今度は店番です。
 次から次へと、いろんなお客さんがやってきます。
「なるべく上等なやつをいろいろ混ぜて、これだけカゴに詰めてくれ。見栄えよくのしをかけてね」
 そう言って、新しいお札をポンと投げ出す人もいます。
 かと思えば、一山いくらの品をあれこれと見回った末に、ごそごそと帯の間から財布代わりの封筒を取り出す、みすぼらしいおばあさんもいます。
「金柑(きんかん)、これだけおくれ」
 そう言って、いくらかの銅貨を店先に投げ出す子どももいました。
 そういうお金のなさそうな人を見ると、要吉はうんとまけてあげたい気持ちになりました。
 どうせ売れ残れば捨ててしまうのだから、買いたくても買いたくても買えないような人たちには、どんどんたくさんあげればいいのに、と思ったのです。
 しかし、そんなことをしようものなら、主人やおかみさんに叱られるどころか、ひどい目に遭わされるに決まっています。
 いつか、汚れた身なりで髪の毛をもじゃもじゃにした、それはそれは小さな女の子が、汚れた風呂敷包みをぶら下げて、店の前に立っていたことがありました。その子は、朝鮮あめを売って歩く女の子でした。
女の子は、いかにもほしそうな顔をして、店の果物をじっと見つめていました。
要吉は、その子がかわいそうになって、とっさに傷もののバナナをひとつかみつかんで、女の子に手渡しました。
すると、奥から出てきたおかみさんが、突然要吉をどなりつけました。
「何をしているんだい!」
「え、あの、傷んでいるものを少しあげただけです」
「余計なことをしなくていいんだよ」おかみさんは、いきなり後ろから要吉のほっぺたを、ぴしゃりと平手打ちしました。
「あげるなら、私がやるよ。……そんなことをしてみな。店の品物まで安っぽく見えてしまうじゃないか」
要吉は、その時のことを思い出すと、たとえこのまま捨ててしまうものだと分かっていても、貧しいおばあさんや子どもたちに対して、みかんひとつまけてやることさえできなくなりました。
要吉は、なんとも言えない気持ちで、毎日毎日繰り返される自分の仕事が、つまらなくてたまらなくなっていきました。

ある日のこと、要吉はまたお屋敷へ御用聞きに行きました。
すると、ちょうど勝手口に出ていた女中さんが、真っ黒になったバナナをごみ箱に捨てていました。
「おや、どうされたんですか。この前お届けしたばかりで、まだ新しかったはずですが」
要吉はびっくりして尋ねました。
「なあに、これはもう、ずっと前に取っておいたものよ」と女中さんは言いました。
「いただきものや何かで忙しくて、奥様が召し上がらなかったから、しまっておいたら腐っちゃったのさ」
女中さんは平気な顔でそう言いました。
しかし要吉は、なんとも言えない悔しい気持ちになりました。
「もったいない話ですね。そんなになる前に、どなたか召し上がる方はいらっしゃらないんですか?」
「ああ、お許しが出ないことには、あたしたちだって勝手にいただくわけにはいかないからね。それに」と、女中さんは妙な顔をして笑いながら言いました。
「そんなに心配しなくたっていいわよ。こっちで勝手に腐らせたんだから、またいくらでも注文してあげるわよ。お金さえ払えば、おまえさんの商売に損はないでしょう?」
「それはそうですけれど……」
要吉は、なんとなくムカムカすると同時に、悲しい気持ちになりました。
店で腐らせるだけでなく、こうしてお屋敷の台所へ来ても、食べる人もなくただ腐らせていく。
大勢の人たちの手をかけて、ようやくここまで運ばれてきた尊い品物が、誰にも食べられずに腐っていく。
ただ、ごみ箱へ捨てられるためだけに運ばれてくるのだとしたら、それでいいのだろうか。
それなのに一方では、腐りかけの安い果物さえ、十分には食べられない人たちが大勢いるというのに。
「ああ、今夜もまた、あの藪へ腐ったものを捨てに行かなければならないのか」
そう思うと、要吉はなんとも言えない嫌な気持ちになりました。
商売というものが、どうしてもこういう結末を見越してやらなければならないものだとしたら、なんて嫌なことだろう。

それでも、要吉は水菓子屋の店を飛び出すわけにはいきませんでした。
要吉が徴兵検査を受ける年まで勤め上げるという約束で、要吉の父は水菓子屋の主人から何百円かのお金を借りていたからです。
いくら考えても、要吉には「商売のためには、食べられるものを腐らせていい」という理屈がどうしても分かりませんでした。
「大きくなったら分かるようになるだろう」要吉はそう言って、自分をなぐさめるほかありませんでした。
「それに年季が明けたら、自分でひとつ店を出すんだ。そうすれば決して、品物をむざむざと腐らせるようなことはしない。腐りそうになったら、ただでも人に食べてもらうんだ」
要吉はそうも考えてみました。
しかし、それは要吉が大人になってみなければ、本当にできることなのかどうか分かりません。
「……そのうえ、お屋敷などで食べもせずに捨ててしまうのは、いったいどういうことなんだろう」
これは、なおさら要吉ひとりでは解決できない問題でした。
要吉は、女中さんの平気な顔を思い出すと、ただなんとなく腹が立ってたまらなくなりました。
「みんな、ものの値打ちを知らないんだ」
要吉はしばらくして、そうつぶやきました。
しかし、それだけでは要吉の胸の中につかえている重苦しい塊は、少しも軽くはなりませんでした。

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