初級翻訳・くまと車掌 第3話

くまと車掌

――いや、考えた事柄は妙でもなんでもないのだが、そんな切羽詰まった場合に、よくあんなのんきなことを考え出したものだということ、それ自体が妙なのだった。それは、自分がこれまでに聞いたことのある、くまにまつわるいろんな珍しい話だった。
そんな話が、つぎからつぎへと頭に浮かんできたのだ。
……そのうちの一つは、ふいに山の中でくまに出くわした男の話だった。
そういう場合に、死んだふりをするということは誰でも知っている。
しかし、その話は、それにしてもものすごいものだった。
――その男は、やっぱりどうすることもできなくて、仕方なしに地面に倒れて息を殺していたのだそうである。
くまが、頭のすぐそばまでやってきて、自分のまわりをくんくんとかぎまわしているのがはっきりとわかる。
男はまったく死んだようになって、心臓の鼓動までも止めるようにしていた。
もっとも、そんな時にはかえって心臓はドキドキと激しく打ったことだろうけれど……。
冗談はさておき、二分……三分……そのうちにくまの気配がしなくなったように思われた。
その男は、もう大丈夫だろうと思って、おそるおそるかすかにうす目を開けてみたのだそうだ。
――その瞬間、ザクンと一打、大きなくまの手が、男の右の額から頭にかけて力いっぱい打ちおろされた。
男は夢中で、まるでバネが仕掛けられているかのように飛び上がって、そのあとどうしたのか自分にはわからない。
ともかくその男は助かったそうである。
おそらく、くまの方も不意をうたれてびっくりしたのだろう。
しかし、目を開けてみるまでの時間は、ほんの一分か二分だったのだろうが、その男にとってはどんなに長く感じられたことだろう。
――
 つい、話が横道にそれてしまった。
――しかし、くまといっしょに貨車の中に閉じ込められたまま、自分はまったく、そんな他人の話なんかを思い出していたのだから、我ながら変なものだ。
「ごーっ。」
という響きが、列車全体を包み込むようにとどろきわたった。
「鉄橋だ。」
と思うと、自分はじっとなんてしていられなかった。
川を渡ってから約二マイルのところが例の難所なのだ。
機関士も十分に速度を落としてはくれるが、後部のブレーキは、どうしても自分でかけなければならないことになっている。
だが、勢いのついた列車が機関車のブレーキ一つだけでは支えきれないとしたら、脱線か転覆か……。
わずか二、三両の短い編成とはいえ、貨物と客車が一緒になった混合列車なので、当然お客さんたちも乗っている。
その乗客たちの運命は、まったく、自分のこの両腕にかかっていると言ってよかった。
自分はしっかりと足を踏みしめて立ち上がった。
すると、ふいに明るい光が一筋、目の前を走り、暗い車内に斜めの線を引いた。
「月だ……月の光だ!」
貨車の横腹にある大きな板戸のすき間から、ちょうど今しがた昇ってきたばかりの月が差し込んできたのだ。
自分は、なぜだか急に勇気がわいてきた。
月の光をたどって足元を見ると、鮭の山にかけられていたむしろが二、三枚、床に落ちている。
「これだ。」自分はとっさにそう思った。
「火だ、火だ。」
自分はあせりにあせって、ポケットからマッチを探そうとしたのだが、なぜか手がうまくポケットに入らない。
もどかしく思って、ぐっと手を押し込もうとすると、中でポキリと折れたものがあった。
取り出してみると、それはろうそくではないか。
――さっき転んだ拍子にポケットから飛び出していたのを、夢中で手探りしてつかみ取っていたらしい。
二、三本まとめてマッチをすると、自分はまずその火をろうそくにうつした。
――破れたガラス窓へ片手を突っ込んだまま中腰で立っているくまの姿が、急に明るく照らし出された。
急に火を見たつくまの目は、ギロギロと狂い出しそうに光っていた。
自分はむしろに火をつけた。
メラメラと燃え上がったかと思うと、むしろが湿っているらしく、すぐに力なく消えそうになる。
くまは低く長くうなりだした。
それは、さっきまでほえていた声とは違って、大敵に出くわした時に、お互いのすきを狙ってにらみ合っているような、不気味なものだった。
こちらの火勢が弱ければ、今にも飛びかかろうかという気配がありありと見えた。
自分は、さっき石油がこぼれたと思うあたりに、足で下に落ちているむしろを押しやり、手に持った一枚の燃えかけたむしろを盾のように体の前にかざしながら、足先でむしろに石油をしみこませようと、ごしごしと下のむしろを踏み続けた。
くまはまだうなりながら、自分をにらみすえている。
手に持っているむしろが消えてしまう前に、手早く自分は床のむしろをひろい上げた。
石油がしみていたのか、むしろが乾いていたのか、今度は勢いよく一気にパッと燃えついた。
このチャンスを逃してはならないと、自分はおそろしさも忘れて――本当はおそろしさのあまりなのだが――燃え上がるむしろを、まるでスペインの闘牛士が使う赤いマントのようにひらひらと振りながら、じりじりと前進した。
鼻の先で燃え盛る火を見ては、くまも我慢できなかったのだろう。
どしんと大きな音を響かせて、後ろへとびすざった。それといっしょに、またまどガラスの落ちくだける音がした。
くまと自分ははじめと同じ位置にもどったわけだ。
すみのかべ板に背中をこすりつけて、立ったくまは、まるでまねきねこみたいなかっこうだった。
(あとになってわかったことだが、くまは、ガラスまどに手をつっこんだひょうしに片手にけがをしたので、自然そんな手つきをしたのだ。)
 この時、だしぬけに汽笛が、ヒョーと鳴った。
下りのカーブにかかる合図なのだ。
自分でも、よく、それが、耳にはいったと思う。
――自分は、なにもかもわすれて、うしろのガラスまどへ上半身をつっこんだ。
しかし、どうしても足がぬけない。
死にものぐるいでもがいているうちに、さいわいに、手が、ブレーキのハンドルにかかった。
自分は、宙にぶらさがったままで力をこめてハンドルをまわした。
……それから、あとのことは自分はなにもおぼえていない。
すぐつぎの駅で、自分は腰から下に火傷をして、気絶しているところを助けられた。
ころんだ時に、ズボンのうしろにしみこませた油に火がついたものらしいが、なるほど、しりっぺたをもやしていたのだから、くまも、よりつかなかったわけではないか。
――ただ、この間二十分か三十分のことが、自分には実に実に長いことに思われてならない。
くまは、わけなく生捕られた。
始発駅で、さけのつみこみを終って、戸をしめるすきにはいりこんだものだろうが、なにしろひとりで汽車へ乗りこんだくまもめずらしいというので、駅員たちがだいじに飼っていたが、二年あまりで死んでしまった。

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