初級翻訳・河童の話 第4話

折口 信夫

尾張の津島祭りも、その一部には馬の禊(みそぎ)の意味が含まれています。この神社の神職が厩の護符を配り歩いたのは、多くの馬たちが津島の神馬(しんめ)の代わりとして、禊の恵みを受けられるようにするためでした。馬は津島の神馬なのです。

その馬の口綱をとっているのは猿です。時には神職がその役目をすることもあります。猿を描いたのは、津島以外の形式が混ざっているからです。これは、大津の東町に移り住んだ穴太(あのう)の猿部屋の信仰によるものです。日吉山王(ひよしさんのう)の神猿が、神馬の案内役となって神様のお供をすると考えられていたためです。神馬に禊をさせるのも、この猿の役割でした。

この猿がいる場所には、神馬に災いがありません。そのご利益にあやかりたいという願いから生まれたのが「馬曳き猿」の護符でした。今でも、道中で見かけることがあります。馬の腹掛けに「大津東町」と染め出したものを着けているのを見かけますが、それはその馬が猿部屋の守護を受け、日吉の神馬の禊の恵みを受けたという目印なのです。

昔は、日本の国中の陸地において、馬ほどの強さを感じさせるものはありませんでした。しかし、その馬が一歩でも川へ足を踏み入れると、水の中に住む小さな水妖(河童)のせいで、引きずり込まれることがあると考えられていました。水を頭に載せているからこそ強い河童の力を、以前から言われていた「頭のお皿」と結びつけました。そのお皿にある水をこぼされてしまうと、河童の力はなくなってしまうというように、理屈をつけて考えられるようになったのです。

日吉神社の使いである猿は、水の良し悪しをよく見分けることができます。湖の近くに降りていって、じっと水を見つめています。そして、最も清らかな水が流れてくるのを待って、神様に伝えて神様の禊を取り行うのです。こうした信仰から、猿は悪い水や、水の中に邪悪なものが潜んでいることを見抜く力があると考えられました。この考え方から、屋敷の水を清めることを中心とした庭の祝い事には、猿が登場するようになったのです。そこからさらに広まって、屋敷や建物の祝福、そして屋敷に入り込む邪悪なものや疫病を追い払うために、猿を舞わせる風習も生まれました。

馬の背中にまたがった神様を想像するようになったのはいつ頃からか、詳しいことは分かりませんが、古代の日本では、神様が動物に乗ることは考えられていませんでした。馬が尊い乗り物とされるようになってからも、馬に乗ることを許された神様はいなかったのです。人間が馬に乗るようになってから、それを神様に当てはめるようになりました。宮廷から馬を献上されるようになると、その神様の格も高くなっていったのです。祝詞(のりと)にも白い馬を捧げるという言葉が見え、絵馬を奉納する風習が比較的早くから行われていたのには別の理由もありますが、この面からも説明しなければなりません。

平安時代以降、格の低い神様たちは、心から馬を羨ましがっていました。馬に乗った人が通りかかると、馬の足を止めさせたり、乗り手を振り落としたりしたのです。ただ、後世の考え方で見ると、馬に乗ったまま通り過ぎる無礼を咎めているように見えます。同じように低い立場だと考えられていた水の神様なども、馬を欲しがっていました。そこで、水辺に近づく馬を捕まえようとするのだと、神様や精霊の心を勝手に推し量ったのです。これが、河童が馬を引き込もうとして失敗したという話の種になりました。そして、人間に使役される「河伯(かばく)」という存在と結びつけて、命乞いをして誓約を立てたり、お供え物をしたり、秘術を教えたりしたという説明が付け加えられたのです。

「えんこ」「えんこう」という呼び名が「猿猴(えんこう)」から出たという考えは、誰にとっても信じやすいものなので、当分は揺るぎそうにありません。しかし、なぜわざわざ「猿」という言葉を避けて、耳慣れない音を選んだのか、私には判断がつきません。あるいは「井子(いのこ)」や「かご」といった言葉の例から推測すると、「井戸の子」から出たものが連想によって、猿猴の「えんこう」という発音と重なったのかもしれません。

もし「えんこう」が間違いなく「猿猴」だとするならば、水を守る神の使いである猿を、やがて水の精霊として見るようになり、「猿=河童」として、水の中に多くいる方を「えんこう」と言い分けたとも捉えられます。馬曳き猿を河童の変身だと考えることは、猿とえんこうの関係性は説明できても、まだ完全には証明できません。ただ、この護符を貼ることで馬の災厄を防ぐことができると考えた、その理由だけは分かったように思います。馬乗り(うまのり)の一族に伝わるお話だとしても、猿を連れた人や、馬曳き猿を信じる神職たちの教えから枝分かれしていった大もとは、きっと同じものだったのでしょう。

四 椀貸し淵(わんかしぶち)

大和(やまと)の水木直箭(みずきなおや)さんが作ってくれた、柳田(やなぎた)先生の著作の目録の中にも、大切な項目として載っているものの一つに、「椀貸し塚(わんかしづか)」があります。
私個人にとっては、ものすごい衝撃を受けた研究です。
いまは、先生のほかの考え方からも、こうした発想が成り立ちそうだという点だけをお話しして、同じお話が重なるのを避けたいと思います。

椀貸しに関する伝説の中には、河童(かっぱ)が出てこないものもたくさんあります。
けれどこれは、塚のなかに湧き水があるような場所に伝えられていたお話が、あとになってから、ただの普通のお墓や塚にまで広がっていったのだと私は考えています。
やっぱり、水辺の洞窟や、滝の淵など、地下水が通っている場所を舞台にするほうが、もともとの形に近いのではないでしょうか。

「お膳やお椀を〇人前お願いします」と書いた紙を、塚や洞窟、あるいは淵の中に投げ込んでおくと、その次の日には、必ず注文どおりの数の木のお皿やどんぶりが揃えられて、穴の入り口や、岩の上などに置いてあったのです。
ある時、借りた数だけきちんと返さなかったことがあってから、それ以降は、道具を貸してくれなくなった——という結末が、決まってこのお話にはついています。

このお椀を貸してくれる主(ぬし)が誰なのかは、はっきりと語られない言い伝えが多いです。
その中でもはっきりしているものは、竜宮(りゅうぐう)だと言ったり、河童やキツネだと言ったりするものです。
「キツネでもなければ、こんな不思議なことは起こせないだろう」と考えたのは、水とは関係のない山の中や野原の塚に、ときどきキツネが出入りしているのを見かけることがあったからです。

今でもたまに見かけますが、昔ほどその姿は激しく見られませんでした。
一年に一度、あるいは数年に一度のお祝いやパーティーのために、何十人分もの木のお皿や食器を揃えて大切に蔵(くら)にしまっている家が、昔はたくさんありました。
中には、「一世代に一度だけ使う」なんていうお家さえ、昔の上流社会にはあったものです。

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