初級翻訳・泣虫小僧 第4話

林 芙美子

勘三は封筒から拾円札を引き抜きましたが、ふと何かを思い直したように、そのお札をまた封筒の中へしまい込みました。
「うーん……」
勘三はそう唸りました。
「ねえ、それ拾ったものだけど、僕たちのものじゃないんだろう?」
「そうだよ。この持ち主の女性だって困っているだろうから、届けてあげなきゃいけないんだ……」

名刺の裏を見ると、住所は渋谷区幡ヶ谷本町とありました。勘三はふと、寛子と結婚したばかりの三、四年前に住んでいた幡ヶ谷のアパートのことを思い出しました。まるで芝居小屋の裏のような、曲がった梯子段を上がった先の三畳間を、月五円で借りていたのです。当時は学校を出たばかりで、貧乏をしていても希望がありました。しかし、子供ができて六年にもなり、自分の書く作品がちっともお金にならない現状では、まるで大海原の真ん中に放り出されたような心細さで、どうにも身動きが取れません。

「ままよ、乗りかかった船だ! なんとかなるさ」
「その女の人のところへ届けに行くの?」
「ああ、届けてやることにしよう。まあ待て、その前に叔母さんのところに電話をかけてみないとな……」

勘三はそう言うと、青いハンドバッグの財布から五銭玉を一つ取り出し、ガレージのそばの公衆電話ボックスへ入っていきました。
「もしもし……お菅さん? いや、ちょっと厄介なことになってね。そうなんだ、夫婦喧嘩になっちゃってさ。啓坊のことなんだけど、君のところで二、三日預かってくれないかな……えっ、それは困ったな。じゃあ、お蓮さんのところへ置いていくか。うーん、新婚生活のところへは気が引けるけど、何しろ意地を張っちゃってね。啓坊は可哀想なんだけど、姉さんがどうしても『あの人が憎い』って言うんだよ。……あの人も、だらしがないからね……」

勘三が電話から出てくると、啓吉は白目をむくほどに大粒の涙を溜めていました。
「そんなに心細がらなくても大丈夫だよ。中の叔母さんは事務所の人たちと明日はハイキングに行くんだってさ。だから、小さい叔母さんのところへこれから行ってみよう」
「…………」
「大丈夫だよ。……なんだ、男の子のくせに」
「ねえ、僕、お母さんのところへ帰りたいよ!」
啓吉はそう言うと、公衆電話の後ろへ回り込み、雨に濡れたまま、声も立てずに泣き出しました。

八

蓮子は十七歳の夏、姉の寛子を頼って上京してくると、すぐ姉の夫である松山勘三の友人、瀬良三石と結婚してしまいました。そのことで三人の姉たちに「呆れた女だ」と叱られたのです。それ以来、この半年ほどはどの姉たちにも音信不通で、三石と夫婦気取りでその日暮らしを送っていました。

瀬良三石は洋画家で、毎年帝展に二、三枚は絵を出品していましたが、落選ばかりの憂き目を見ていました。本人は「七、八年前に軍鶏(しゃも)の群れを描いた絵で一度入選した」と言い張っていますが、それも怪しいものです。当人は画家ヴァンドンゲンを崇拝していて、青色を基調とした人物画をよく描くのですが、勘三に言わせれば「空き家に住む幽霊のような人物画」だと酷評されていました。三石は十七歳の蓮子を連れ去ってからは、勘三の家にはまったく寄り付かなくなっていたのです。

「啓坊、泣くもんじゃない。お前のお母さんもだらしがないけど、お前もだらしがないぞ!」
勘三はひどく空腹でした。いくつかの新聞社を回ったものの収穫はなく、雨は土砂降りで、財布は一文なしの空っぽ。朝から何も食べていない状態でした。背に腹は代えられないと、有楽町のガード下まで戻り、「小八」というおでん屋へ入りました。
「仕方がない、飯でも食べて、蓮子叔母さんのところへ行くことにしよう」

そう言って、最初は遠慮がちに蒟蒻やがんもどきをつついていた勘三でしたが、もともと好きなお酒です。鼻先でおいしそうな匂いを嗅がされては、「ええい!」と気合の一つも入れたくなるというもの。いつの間にか勘三の前には徳利が四本も並び、外はすっかり暗くなっていました。
「何だよ、びくびくして! おい啓坊、大丈夫だよ。相手はどれだけヴァンドンゲン気取りでも、たかが落選画家だ。叔父さんが連れて行けば、文句なんて言わせないさ。あんなサロン絵描きを崇拝するから、三石はいつまでたっても三石なんだ……おい、酒だ!」
勘三は、いささか酒乱の気配を見せ始めていました。啓吉は、もはや母が遠くなってしまったと泣いている場合ではなくなっていた。
体中に鐘を打たれるような激しい動悸がしてきたのだ。
「叔父さん、お家へ帰ろうよッ」
「ううん、分かった分かった、お家もいいだろう。女房も伸ちゃんもいいだろう。が、さてだね――人生はそんなにびくびくして生きるもんじゃないよ。ええ? 活発に歩かなきゃいかん。ねえ姐さんや……」
おでん屋の若い女主人は、唇元へ手をあてて、ただおほおほと笑っている。
「どうだい? 啓坊、お前みたいな根性じゃ、出世できんぞ! 何だ! びくびくして。秀吉と蜂須賀小六の話を知らんのかねえ……」
勘三は懐から原稿の束を出すと、一つ一つ題を読みあげていった。
「一、臍問答、二、風や海や空、三、瘰癧(るいれき)のある人生、四、不格好な女、五、鍛冶屋同士の耳打話……どうだい、どれだって面白そうじゃないか。それなのに、これが一本の酒代にもならんというのだから不思議だよ……」
卓子(テーブル)には徳利が七本になっていた。
啓吉と同じくらいの厚化粧した女の子が、「唄わして頂戴よ、お客さん」と這入ってきた。
啓吉は、びっくりして勘三をつついた。
「ああ、いくらでも唄いな。人生は唄いたいことだらけだ。どら、俺が一つ唄ってやろう……」

風と波とにさそわれて
今日も原稿書いてます
酒も飲めない原稿を
風と波とにだまされて……

啓吉は、立ち上がって一人で戸外へ出て行った。

九

――「この車庫二階 尺八教習所・都山流 水上隆山」――一台も自動車の入っていないガレージの横に、ペンキ塗りのこんな看板が出ている。
鍵の抜けたピアノのようながらんとした車庫の中へ入ると、ドスンドスンと足音が天井へ響いた。
「おい、小僧! 待ってな、いいかい」
啓吉は泥まみれな足で、車庫の入口につっ立っていた。
酔っぱらいの叔父さんなんかどうでもいいや、俺は発明家になってやるんだから、そう力んでいても、看板の上の五燭の電灯がまるで一つ目小僧のようで、啓吉の胸の中は鳴るような動悸がしている。
「おい! 小僧ッ、馬穴(うまあな)をやるから足を洗って、その鉄梯子から上がって来な」
ガレージの隅がほの明るくなった。
そこから鉄梯子が下がっていて、小さな馬穴(バケツ)が紐にぶら下がって降りてきた。
啓吉は尺八を吹く男の、大きな下駄を持って、水道のそばへ行った。
黒い駄犬が啓吉にもつれついてきた。
小僧、小僧だなんて、大人になったら大学へ行くのに馬鹿にしてらあ。啓吉は、よく母親のところへやって来る「小僧、小僧」と呼び捨てにする男のことを思い出した。
俺は小僧に見えるのかな。
厭だなあ、二階へ上がったら名前を言ってやろう……啓吉は、雑巾で足を拭いて、鉄梯子を上っていった。
啓吉が二階へ上がっていくと、暗い三和土(たたき)の上で、さっきの黒犬が降りてこいと甘えて吠えていた。

コメント

タイトルとURLをコピーしました