ある年の秋、雨がしとしとと降る日に、ヒゲのじいは仲間の漁師たち七、八人と一艘の小舟に乗って沖へ漕ぎ出しました。
雨が降る日は、海はたいてい静かなものだそうです。
その代わり、どこを見ても何も見えない、灰色の幕にすっかり包まれてしまって、ただ静かに降る雨の音が耳につくばかりです。
漁師にとって海は自分の家のようなものだけれど、雨の降る日はなんとなく底気味の悪いものだと、じいは言いました。
さてその日は、しとしとと雨が一日降り続いて夕方になりました。
これといった収穫もないので、少し時間は早いけれど引き上げることにし、みんなで艪(ろ)を漕ぎ直しました。
そして、「エイホイ!」と掛け声を出して漕ぎ始めました。
すると、いつの間にかどこから現れたのか、大きな帆前船(ほまえぶね)が行く手を遮っているではありませんか。
しばらく艪を漕ぐ手を止めて、その帆前船が通り過ぎるのを待とうとしましたが、そこへ止まったきり動こうとしません。
じいたちの舟は艪の向きを変えて、避けて通ろうとしました。
すると、帆前船はスウーと音もなく動き出して、また行く手を遮ってしまいました。
漕ぐのをやめて待とうとすると、そこへピタリと止まってしまいます。
こちらから避けようとすると、またスウーと動いて行く手を遮ります。
そんなことが二度三度続いたので、ヒゲのじいをはじめ漁師仲間はみんな怒ってしまいました。
「子供の遊びじゃあるまいし、悪戯(いたずら)もいい加減にするがいい!」ということで、帆前船に向かって口々に怒鳴り散らしました。
帆前船の甲板には十四、五人の人が見えましたが、誰一人としてこちらを振り向こうともしません。
何かいそがしそうに、あちこちと歩き回っています。
その時じいがじっと目を凝らして見ると、帆前船の人々は確かに人の形はしているのですが、ぼんやりと影のように、どこか現実味のないところがあると言うのです。
さらに注意深く見ると、帆前船そのものも影のようにぼんやりとしていて、実体がないようでした。
夕方ということもあり、雨がしとしと降っているので、最初は気づきませんでしたが、よく見るといかにも怪しげな船でした。
「おい、しっかりしろ!」
とじいが言って仲間の方を振り返ると、その時になってみんなも異変に気づいたのか、帆前船を見上げて呆気にとられた顔をしていました。
「どうしよう」とみんなが言うので、
「何、構うことはない、突き進め!」
とじいは言いました。(その時、じいは一番前の艪を取っていたということです)
そこでみんなは、手に手に艪を握り直し、「どうにでもなれ!」という気合で、その帆前船――幽霊船の胴中をめがけて、小舟を勢いよく突き進めたのでした。「ぶつかる!」と思った瞬間、その帆前船の姿はふっと消えてしまいました。
あたりを見回しても、雨の霧がけぶっているだけで、もう何も見えません。
ここまで話すと、じいは私の手を取って、
「どうだい、弘坊。気味が悪いだろう」
と笑いながら言います。私が「それが海坊主だったの?」と聞くと、
「いやいや。本当の海坊主はここからなんだ」
と言って、じいは話を続けました。
しかし、それはとても短い話です。
じいたち漁師仲間は、幽霊船に出会ってしまったので、ひどく怖くなり、力いっぱい艪(ろ)を漕いで、陸地の方へと急ぎました。
すると今度は、いよいよ海坊主が現れたのです。
その海坊主は、顔の長さが四尺(約1.2メートル)もあって、目は閉じ、口を少しだけ開けていました。
海の上に胸から上を出して、ぬっと立ち上がっていましたが、やはり影のようにぼんやりとしていて、つかみどころのないものだったそうです。
舟でそこにぶつかると、それもたちまち消えてしまいました。
こうして、じいたちは無事に陸地へ帰ることができました。
「海坊主の時は、もう怖くはなかったよ。それよりも、さっきの帆前船の方がよっぽど気味が悪かった」
とじいは言いました。
なぜ海坊主などが出るのかと聞くと、船が沈没してたくさんの人が亡くなった場所に出るのだそうです。
そして、海坊主が出るのは、雨の日と決まっているのだとか。
ヒゲのじいは、この海坊主の話を、私がじいの家へ遊びに行って、二人きりでいる時によく話して聞かせてくれました。
私も、そんな時になると決まって、じいにこの話をしてほしいとおねだりしたものです。
海坊主の話を聞いた後は、なんだか外へ出るのが怖くて、一人で夜道を帰ることができません。
そんな時は、じいに送ってもらって家に帰るのでした。
まんまるなお月さまが空に出て、昼間のように明るい道の上に、じいと私の下駄の音が「カラコロ」と響きます。
そんな時、じいはいつもこう言いました。
「弘坊、歌わないかな」
そこで私が、祖母から習った「お月さまいくつ、十三七つ」という歌を歌うと、じいは黙って耳を傾けていました。
じいは、私の家に来ても夜は長居をしませんでした。
お茶を一杯飲むと、さっさと帰ってしまいます。
祖母の話によると、じいは夜は自分の家にいて、お経をあげているのだそうです。
若い頃にお嫁さんをもらったけれど、間もなく先立たれてしまい、それからじいはずっと一人で暮らしていたと、これは私が大きくなってから母に聞いた話です。
ヒゲのじいは、今生きていれば七十二、三歳ですが、どこでどうしているのか全くわかりません。
私が十歳の時に、行方がわからなくなってしまったのです。
じいは、あの小さな家の中に、箪笥も着物も時計もすべて残したまま、ただ阿弥陀様(あみださま)の掛け軸だけを持って、どこかへ行ってしまいました。
何か悪いことをしたわけでもなく、借金があったわけでもないのに、なぜじいは黙って行ってしまったのだろうと、母も祖母も恨めしそうに言っていました。
じいがいなくなった当初、私は病気になるほど元気をなくしました。
「今に帰ってくるだろうか」と二、三年は心待ちにしていましたが、ついに帰ってくることはありませんでした。
そして今はもう、二十年以上の月日が過ぎてしまいました。
初級翻訳・海坊主の話 第2話
土田 耕平
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