初級翻訳・海底の魔術師 第16話

江戸川 乱歩

「小林さんはどこにいるんですか? だれもいないじゃないですか」
少し怖くなってそう言うと、水夫は言いました。
「ほら、そこですよ。あのタルの向こうですよ」
そう言って、賢吉少年の手をとりました。
見ると、三メートルほど先に、大きなビールのタルのようなものが置いてあります。普通のビール樽よりはずっと大きなやつです。
小林さんは樽の影なんかで何をしているんだろうと不思議に思い、急いでそこへ近づきましたが、樽の向こうを見てもだれもいません。
樽のふたが開いていたので、もしや樽の中にいるのではないかとのぞき込んでみましたが、中には酒も水も入っておらず、からっぽでした。
「あっ、何をするんです……!」
そう言おうとしたとき、大きな手が賢吉君の口をぐっとおさえつけました。
逃げようとしても、もう片方の手が体を力いっぱい抱きしめているので、どうすることもできません。
水夫は賢吉君を抱き上げると、なんの苦もなくその大きな樽の中へ押し込み、上からふたをして、ポケットから取り出したクギとカナヅチで、コンコンと打ちつけてしまいました。
あっという間の出来事でした。船の人たちはみんな潜水作業の方に集まっているので、だれも気づく者はいません。
それにしても、この水夫はいったい何者なのでしょう。賢吉君を樽詰めにして、いったいどうしようというのでしょう。
もしかしたら、この水夫は鉄の人魚の怪人団の回し者だったのではないでしょうか。ハヤブサ丸が大阪を出るときから、水夫に化けて乗り込んでいたのではないでしょうか。
水夫はそこにあった長いロープを樽に巻きつけて固く結び、樽を持ち上げると、船尾の船べりまで運びました。
そして、じっと暗い海を見下ろしています。
するとそのとき、ハヤブサ丸から三十メートルほど離れた海面に、パッと光ったものがありました。
海の上にガラスのような丸いものが浮かび、その中に電灯がついたのです。
ついたかと思うとすぐに消えてしまいましたが、ひと目でそれが何であるかが分かりました。
それは、あのおそろしい魚形潜航艇だったのです。
クジラのような黒い船体が半分ほど浮かび上がり、その背中に出っぱっている丸いガラスのようなものの中の電灯が光ったのです。
きっと、ハヤブサ丸の中にいる仲間の水夫へ合図を送ったのに違いありません。
それから、実におそろしいことが起こりました。
水夫は両手でロープを握り、賢吉君を閉じ込めた樽を船べりから海面へと下ろしたのです。
樽は打ち寄せる波の上でゆらゆらと浮いています。
水夫は上着を脱いでシャツ一枚になると、長いロープの端を船べりの手すりに通して、それを持って自分も海面へと下りていきました。
そして立ち泳ぎをしながら、手すりにかけたロープを手繰り寄せ、それを自分の体に巻きつけて静かに泳ぎ始めました。
言うまでもなく、魚形潜航艇を目指しているのです。
水夫が泳ぐにつれて、ロープにつながれた樽もその方へ引かれていきます。そして見る間に、魚形潜航艇のそばへ近づいていきました。
すると、それを待っていたかのように魚形艇の背中の丸いガラスがパッと上に開き、そこから人の顔が現れました。
「うまくいったか?」
「うん、子どもはタルの中に入っている。このロープを、しっぽの方へくくりつけてくれ」
海の中の水夫はそう答えて魚形艇に登りつき、ガラスぶたの入り口から中へ滑り込みました。
すると、中にいた男が入れ替わって魚形艇の背中に現れ、ロープの端を持って艇のしっぽの方へ走っていきました。
しばらくすると、その男が帰ってきました。
「しっかりくくりつけた。これでもう大丈夫だよ」
そう言って魚形艇の背中の入り口へ滑り込むと、丸いガラスのふたがパタンと閉まり、魚形艇はそのまま静かに海中へと沈んでいきました。あとにはロープに引かれた樽が、プカプカと波間に漂っているばかりです。

洞窟の怪異

樽の中に詰め込まれた賢吉少年は、あまりの驚きにしばらくは気を失ったようになっていましたが、やがて自分の入っている樽がゆらゆらと激しく揺れていることに気づきました。
「きっと海へ投げ込まれたんだ。そして、波のまにまに漂っているんだ」
と、賢吉君は悟りました。
ああ、なんと心細い身の上でしょう。樽には少しの隙間もないのですから、泣いてもわめいても誰にも聞こえるはずがありません。
「お父さん! お母さん! 小林さーん!」
聞こえないとわかっていても、自然と口から声が出てしまうのです。賢吉君はいくどもいくども、声を限りに叫びました。

そのうちに、突然タルの揺れ方が変わったことに気づきました。今まではゆらゆらと漂っていたのですが、それが急に一方へ走り出したような感じがするのです。波を乗り越え、恐ろしい勢いで進んでいるのです。なんだか非常なスピードの快速艇に引っ張られているような気持ちです。引っ張られるにつれて、樽はくるくると回ります。賢吉君の体も上を向いたり、横を向いたり、絶えずくるくると回っています。そのたびに体のどこかが樽にぶつかるので、その苦しさといったらありません。賢吉君は、こんな苦しい思いをするくらいなら、早く死んでしまったほうがいいと思いました。

そのうち、体がむちゃくちゃに揺れるだけでなく、なんだか息が苦しくなってきました。水もしみ込まないほどしっかりと蓋をした樽ですから、空気が悪くなってきたのです。つまり、酸素が少なくなって息苦しいのです。このまま長く樽の中にいたら、本当に死んでしまうでしょう。

それからどれほど時間がたったのか、もう夢中でした。ふと気がつくと、樽が少しも動かなくなっていました。今まで揺れに揺れていたのがピッタリと止まったので、耳がジーンとして気味が悪いほど静かになりました。すると、また樽がスーッと持ち上げられたように動いて、それからゆらゆらと揺れましたが、波に浮いているのとは違った感じでした。

それから頭の方で「ガン、ガン」と恐ろしい音がしたかと思うと、サーッと冷たい空気が流れ込んできました。樽の蓋が開けられたのです。賢吉君はその空気を吸ったとき、実に美味しいと感じました。空気がこんなに美味しいものだとは、夢にも知りませんでした。

誰かが賢吉君を抱き上げて、樽の外に出してくれました。見ると、それは服は違っていましたけれど、さっきの悪者の水夫でした。それよりもびっくりしたのは、いまいる場所です。そこは山の中の洞窟のようなところでした。でこぼこの黒っぽい岩のトンネルのような感じです。賢吉君は、泥棒の岩屋の中へ連れ込まれたのではないかと思いました。逃げ出すことはもちろんできません。そばに悪者の水夫が控えているし、それに体がくたくたに疲れてしまって、もう何をする元気もないのです。賢吉君は樽のそばへうずくまって、ただぼんやりとあたりを眺めるばかりでした。

そのときです。深いトンネルのようになった洞窟の向こうから、ちらっと変なものが見えました。薄暗い洞窟の中ですからハッキリとはわかりませんが、なんだかギョッとするような恐ろしいものでした。びっくりしてその方を見つめていますと、その変なものの姿が岩の角からヌーッと現れてきました。

賢吉君は「あっ!」と叫んで、思わず逃げ出そうとしました。

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