初級翻訳・透明怪人 第6話

江戸川 乱歩

やっと気をとりなおしたふたりの店員は何かわけのわからぬさけび声をたてて人形のあとを追いました。
怪物は通路を右に右に左にとまがりながら、ひじょうな早さで走っていきます。
だれもとめるものはありません。
ろう人形の顔を一目見ると、あまりのおそろしさにみな逃げだしてしまうのです。
怪物はきちがいのように走りに走って、店員専用のせまい階段にすがたを消しました。
追手の店員の数は七、八人にふえています。
店員たちはせまい階段をおしあうようにして口々に何かわりながらかけおりていきました。
二階、一階、地階と三つの階段をすべるようにかけくだって、怪物は一本道の廊下を倉庫のほうへ走っていきます。
行くてに一つのドアがありました。
それをひらくほかはありません。
うしろにはおおぜいの店員がつめかけているのです。
怪物はいきなりそのドアをひらいて中にとびこんでいきました。
「しめたッ。袋のねずみだ。」
まっさきに走っていた力の強そうな店員がさけびました。
そしてドアにとびつくとバタンとそれをしめて、むこうからおしてもひらかないようにもたれかかりました。
「もうだいじょうぶだ。入り口はここ一つしかないし、窓にはみんな鉄ごうしがはまっている、あいつは袋のねずみだ。だれか早く警察へ電話をかけてくれたまえ。」
「よし、ぼくが電話をかけてくる。逃がすんじゃないぜ。」
ひとりの店員がかけだしていきました。
残った人々はドアの前にあつまってげんじゅうな警戒線をしきました。
ろう仮面の怪物はふかくにも出口のないゆきどまりの部屋へとびこんでしまったのです。
いくら空気男でも窓の鉄ごうしのすきまから逃げだすことはできません。
幽霊ではないからです。
目には見えなくても体はあるからです。つむじ風

 しばらくすると、店員のひとりが、三人の背広すがたの刑事さんをつれて帰ってきました。
ちょうどそのとき、デパートの見まわりに来ていた刑事さんたちです。
三人の刑事は、店員たちをかきわけるようにして、入り口のドアに近づきました。
そして、げんじゅうな身がまえをして、パッとドアをひらきました。
すると、そのとき、部屋の中には、じつにおそろしいことがおこっていたのです。
倉庫といっても、品物がぜんぶ持ちだされたあとで、まるで、あき部屋のように、ガランとしていました。
すみのほうに、大きな木の荷箱が二つ三つころがっているばかりで、ほかには何もありません。
ネズミ色のコンクリートのかべ。
ネズミ色のコンクリートのゆか。
光は高い小さい鉄ごうしの窓から、さしこむだけですから、広いからっぽの部屋は、夕方のように、うすぐらいのです。
さいしょ、刑事の目にうつったものは、宙を飛ぶ人間の首でした。
人間の首だけが、投げつけられたように、ヒューッとゆかにおちて、ユラユラとゆれていたのです。
ふいをうたれた刑事は、ギョッとしましたが、よく見ると、それはろう人形の首でした。
そのそばには、燕尾服やシャツやズボンやクツなどが、メチャクチャに投げすててあります。
そして、怪物のすがたはどこにも見えません。
身につけているものを、いっさいぬいでしまって、透明になっていたからです。
いちばんあとで、かぶっていたろう仮面をとって、今、投げすてたところなのです。
三人の刑事は、とっさに、それをさとると、いきなり部屋の中へ、ふみこんでゆきました。
目には見えないけれども、手さぐりで怪物をとらえるつもりなのです。
三人は、右、左、まん中と、三方にわかれて、大手をひろげてすすんでゆきました。
そして、部屋じゅうを、のこるところなく、さぐりまわったのですが、何も手にさわるものはありません。
あいてには、こちらがよく見えるのですから、この鬼ごっこは勝負になりません。
怪物にうまくすりぬけられてしまったのです。
すると、そのとき、ドアのそとで「ワッ!」という、さけび声がしました。
びっくりしてふりむくと、ひとりの若い店員が、廊下にしりもちをついていたのです。
「あいつだっ、あいつにつきとばされたんだ。」
 しりもちをついたまま、まっさおな顔をして、うしろの階段のほうを指さしています。
怪物が自分をつきとばして、階段のほうへ逃げたといういみです。
人々は、いきなり、そのほうへかけだそうとしましたが、すると、またしても、「ワーッ!」と言う、さけび声がして、うすぐらい階段から、ひとりの男が、ころがりおちてきました。
目に見えぬ怪人と、階段ですれちがったとき、つきとばされたのです。
その男は問屋から荷物を運んできた人夫でした。
「まるで、つむじ風のようなものだったよ。階段をおりていると、下のほうからヒューッと、風が舞いあがってきて、まともに、おれの胸にぶっつかった。ひどい力だった。おれは思わず足をふみはずして、下までころがりおちてしまった。」
 人夫は、あとで、そんなふうに説明しました。
そして、透明怪人は、どこともしれず、逃げさってしまったのです。
階段の上に出て、人ごみにまぎれこんでは、もうどうすることもできません。
広いデパートの中です。
すがたのある人間だって、なかなかさがしだせないのに、まして、目に見えぬ怪物を、さがすなんて、思いもよらないことです。
あとでしらべてみますと、デパートの宝石売場などでも、べつにぬすまれているものはないことがわかりました。
むろん、怪物は人形に化けて、ぬすみをはたらくつもりだったのでしょうが、その目的をたっしないまえに、木下少年のために、見つけられてしまったのです。
さて、デパートのさわぎは、べつだんのこともなく、おわりましたが、透明怪人は、まだ東京のどこかにかくれているのです。
そして、つぎのえものを、ねらっているのです。
そのつぎのえものというのは、いったいなんだったのでしょうか。
それは、ふしぎなことに、怪人のさいしょの発見者である、島田少年のおうちの中にある、ある品物だったのです。
怪人はそれをねらって、島田君の身ぺんにあらわれることになります。
お話はいよいよほんすじにはいるのです。

笑う影

 デパート事件があってから二―三日たったある夕方のこと、島田少年はおうちの庭をブラブラあるいていました。
空はドンヨリくもって、春のはじめにしては、いやにあたたかい日でした。
島田君のおとうさんは、戦争のまえまでは、たいへんなお金もちでした。
今はある銀行につとめていらっしゃるのですが、おうちだけは、むかしのままのりっぱなたてもので、庭も広いのです。日本座敷の前が、いちめんのしばふになっていて、そのむこうに築山があり、森のように木がしげっています。
島田君は裏の鳥小屋の前で、ニワトリをからかったりしていましたが、それにあきると、ブラブラと庭のしばふへやってきました。
座敷は、ガラス戸がしめきってあって、中はヒッソリとして人のけはいもありません。
建物のかどをまがって、ヒョイとしばふへ出ると、どうしたのか、島田君は、そこに立ちすくんでしまいました。
しばふの上に、じつにふしぎなことが、おこっていたからです。
島田君はスケートがすきで、ローラー・スケートの道具を持っていました。

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