初級翻訳・透明怪人 第7話

江戸川 乱歩

しばらく使わないで、お座敷の縁の下においてあったのですが、いま見ると、そのローラー・スケートがしばふのまんなかに、ならんでいるのです。
いや、そればかりではありません。
それが、ひとりで動いているのです。
ちょうど人間が足にはめているように、たがいちがいに、すすんでいくのです。
島田君は夢でも見ているのではないかと思いました。
しかし、夢ではありません。
学校から帰ってから、今までのことを、すっかりおぼえています。
ねむったはずはありません。
「アッ、そうだ。
ひょっとしたら……。」
島田君はゾーッと、せなかに水をかけられたような気がしました。
透明怪人のことを思いだしたからです。
あいつが、ローラー・スケートをはいてあるいていたら、ちょうどこんなふうに見えるだろうと、気づいたからです。
しばふの上ですから、スケート場のようには、すべりませんが、それでも、だんだん座敷のえんがわから遠ざかって、築山のすそにしげっている、八つ手の木のほうへ、近づいていきます。
「おかあさーん、早く、だれか、早く来て……。」
島田君はやっと声が出ました。
そして、あとでかんがえると、はずかしいようなことを、さけんでいました。
しかし、そのとき、ローラー・スケートは、もう八つ手のしげみの中に、つきすすんでいたのです。
そして、八つ手の葉がガサガサと音をたて、ちょうどひとりの人間が、その葉をかきわけてはいっていくような動きかたをしました。
八つ手のうしろは、大小のときわ木がしげって、森のように、くらくなっているのです。
やがて、島田君のさけび声を、聞きつけて、おかあさんと女中のたけが、かけてきました。
おとうさんはまだ銀行からお帰りにならないのです。
それから、大さわぎになって、おとなりのおじさんを呼んできたり、警察にも知らせて、庭じゅうを調べたのですが、何も発見することができませんでした。
ただ、八つ手のしげみのおくに、ローラー・スケートがころがっていたばかりです。
怪人は、そこでスケートをぬいで、築山のうしろから、塀のそとへ逃げてしまったのにちがいありません。
それにしても、怪人はなぜスケートなんか、はいてあるいたのでしょう。
調べてみても、べつにぬすまれたものはないようです。
空気男は、クツみがき少年を助けたのでも、わかるように、ときにはよいこともしますし、いたずらっぽいやつですが、なにも島田君のうちの庭へしのびこんで、スケート場でもないしばふで、スケートをやらなくてもよさそうなものです。
これには、何か、わけがあるのではないでしょうか。
もしかしたら、いつか島田君に正体を見られたのを知っていて、島田君を苦しめようとしているのではないでしょうか。
すると、そのつぎの日の夜ふけに、またしてもおそろしいことが、おこりました。
島田君は六畳の自分の部屋に、ひとりで寝るのですが、何かへんな音がしたような気がして、まよなかに、ふと目をひらきました。
裏庭にめんして一間の窓があり、スリガラスの障子がしまっています。
そとに木のこうしがついているので、雨戸はあけたままなのです。
そのスリガラスに、庭の遠くにある電灯の光がさしているのですが、見ると、そこにボンヤリと黒い人の影が、うつっているではありませんか。
その人は、窓から少しはなれたところに立っているらしく、上半身がふつうの人間の倍ほどの大きさにうつっています。
ふしぎなことに、その人は着物をきていないらしく、はだかの肉づきが、わかるのです。
顔は横むきになっていて、モジャモジャのかみの毛、目のくぼみ、高い鼻、その下にひらいているくちびるなどが、実物の倍の大きさで、まざまざと、うつっています。
なんだかボンヤリした、うすい影ですが、かたちだけはハッキリわかるのです。
島田君は、おそろしさに、息もとまるほどでした。
心臓がドキンドキンとおどっているのが、よくわかります。
声をだすことさえできません。
何かの魔力にひきつけられたように、じっとその影を見つめているばかりです。
「エヘヘヘヘヘ……。」
ゾーッと身もすくむような声でした。
影が笑ったのです。大きな影の口が、耳までさけそうなくらいに大きく開いて、パクパクと動かしながら、低い声で笑っているのです。
島田君は、もうがまんできませんでした。
お腹の底から、怒りがふつふつとこみあげてきました。
死に物狂いの勇気がわいてきたのです。
パッと布団の上にとび起きると、
「だれだッ!」
と、どなりつけました。
そして、一飛びに窓のところへかけよると、いきなりガラス障子をガラッと開け放ちました。
その男と直接顔を合わせることも、覚悟の上でした。
目と目をしっかりと見合わせるつもりだったのです。
そして、出せる限りの大声をふりしぼって、思いきり叱りつけてやるつもりでした。
ところが、いったいどうしたというのでしょう。
開け放った窓の外には、だれもいなかったではありませんか。
顔をひょいと外に出せるほどの、あらいたての木の格子がついているだけで、そこから顔を突き出してあたりを見まわしても、どこにも人の影なんてありません。
障子を開けるまでは、確かにそこに影がうつっていたのです。
それなのに、いざ開けてみると、その影の本体である人間が、まるで消しゴムで消したかのように、きれいさっぱりいなくなっているのです。
「一郎、いったいどうしたんだ?」
いまの物音と叫び声を聞きつけて、お父さんが起きてこられました。
一郎というのは島田君の名前です。
「いま、ここに、へんなやつが立っていたの! でも、障子を開けたら、だれもいないんだよ。
お父さん、また……あいつかもしれないよ!」
「あいつ」と言えば、お父さんにもすぐに通じます。
もちろん、透明怪人のことです。
それを聞くと、お父さんの顔つきにも、スッと真剣な色が浮かびました。
そこからまた大騒ぎになりました。
家中の人がみんな起きてきて、部屋という部屋の電灯をパッとつけ、そのうえ懐中電灯やこん棒まで手に持って、裏庭の捜索がはじまりました。
しかし、人影などはどこにも見当たりません。
庭の土がすっかりかわいているので、足あと一つ見つからないのです。
ここでまた一つ、ふしぎな謎がふえました。
空気のようにすきとおった怪物なのに、なぜか「影」だけはあるということです。
もっとも、あとからよく考えてみると、その影は普通の影のように真っ黒ではなく、なんだかボーッとした、半透明のものをうつしたような影でした。
怪物は人間の目には見えないけれど、影だけはどうしても隠しきれず、あんなふうにぼんやりとした輪郭だけがうつってしまうのかもしれません。

真珠塔

その翌日、島田君が学校で木下君に会うと、さっそく昨晩の出来事を話しました。
「いよいよ、なんだか怪しくなってきたねえ。
あいつはきっと、きみの家をねらっているんだよ」
「ぼくをひどい目にあわせようっていうのかい?」
「ううん、それなら、ぼくの方をさきにねらうはずさ。
ぼくのおかげで、あいつデパートでひどい目にあったんだからね。
そうじゃないよ。

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