初級翻訳・透明怪人 第8話

江戸川 乱歩

きみの家にはきっと、あいつが欲しがっている何かがあるんだよ」
「うん、そう言えばお父さんも、なんだかそんなことを言ってたっけ。
でも、ぼくにはくわしく教えてくれないんだ。
うちにはどうやら、あいつにねらわれるような秘密のものがあるらしいんだけどさ」
「それなら、絶対に間違いないよ! ねぇきみ、このことを黒川さんに知らせようじゃないか。
東洋新聞の黒川さんさ。
あの人なら、何かいい名案を思いつくかもしれないぜ」
「ああ、そうだ! それが一番いいや」
そこで二人は先生にわけを話して、学校の電話から黒川記者を呼びだし、これまでの出来事をてきぱきと知らせました。
「それじゃあ、一度きみのおうちにおじゃますることにしよう。
きょうの夕方、おとうさんがお帰りのころにね。
そして、くわしい話をじっくり聞かせてもらうよ」
黒川記者は、島田君の家への道順をしっかりと確かめると、電話を切りました。
その日の夕方、黒川記者は約束どおり、島田君の家を訪ねてきました。
ちょうどお父さんもお仕事から帰られたところだったので、さっそく洋館の応接間にとおして、お父さんと一郎君の二人から、一と前から始まった出来事をかわるがわる話してもらいました。
「フーン、やっぱり影をあらわしたのですね。
影といえば、ぼくも以前、あいつの影にはひどい目にあわされたことがありますよ」
黒川記者は、いまいましそうに、次のような話を語りはじめました。
「二、三日前のことです。
とてもお天気のいい日でした。
会社の仕事で、港区の大きなお屋敷が並ぶ町を歩いていた時のことです。
道の両側にずっと長いコンクリート塀がつづいている、人通りの少ないさびしい場所でした。
もう夕方だったので、赤い夕日が右側のコンクリート塀をいっぱいに照らしていて、そこを歩いているぼく自身の影が、くっきりと塀にうつっていたのです。
ところが、ふと気がつくと、その影がいつの間にか、二つにふくれているではありませんか。
オヤっと思ってあたりを見まわしても、まわりにはだれもいません。
人間はぼく一人なのに、影だけが二つ並んでうつっているのです。
乱視というのは物が二重に見える目の病気ですが、まさかぼくが急に乱視になるわけもありません」乱視だとしてもよほどひどくなければ、影が二つに見えるなんてことはありません。
ところが、片方の影をよく見ると、帽子もかぶっていなければ服も着ていない、はだかっぽうなのです。
だからもちろん、ぼくの影なんかではありません。
しかもその影は、ぼくの影と比べると、なんだかボーッとかすんで見えます。
すりガラスを壁にうつしたような感じなんです。
ぼくはもう一度、あたりを見まわしました。
やっぱり誰もいません。
それなのに影だけは、ぼくの影を追いかけるように歩いているのです。
ぼくは怖くなって、歩くスピードを速めました。
すると、あいつもスピードを速めるのです。
立ち止まると、あいつも立ち止まります。
ぼくは思いきって、「だれだっ!」と怒鳴りつけてやりました。
すると、どこからともなく「エヘヘヘヘヘヘヘヘ」という、いやーな笑い声がきこえてくるのです。
ゾッとするような笑い声でした。
ぼくが立ち止まっていると、そいつの影がぼくの正面にまわってきました。
つまり、影と影とが向きあったのです。
そして相手の影は、いきなり両手をひろげて、ぼくの影につかみかかってきました。
いや、影だけではありません。
ぼくのからだに、目に見えない手がさわってきたのです。
じつにいやーな気持ちでした。
ぼくはゾッとして飛びのきました。
そして、目に見えないやつを力いっぱい突き飛ばすと、死にものぐるいで逃げだしたのです。
もう無我夢中でした。
二百メートルも走りつづけて、人通りの多い町までくると、やっとぼくの影は一つだけになりました。
目に見えないやつは、どこかへ行ってしまったのです。
あの空気男は、ぼくをにくんでいるわけではないようです。
しかし、いたずらをしてくるだけです。
ピストルや短刀は持っていないようですね。
気味は悪いけれど、どこか愛嬌のあるやつです。
島田君の家にも、ただいたずらをしているだけかもしれませんよ。」
「そうだといいんですが、どうもそれだけじゃなさそうです。」
島田君のお父さんは心配そうに、声をひそめて言いました。
「すると、何か心あたりがあるんですか。」
「たった一つあるんです。
私も戦争のあと、いろいろなものをなくしてしまいましたが、我が家の宝といってもいいものが、一つだけ大切に保存してあるのです。」
「フーン、あいつはそれをねらっていると、おっしゃるのですね。
で、それはいったい、どんなものなんです?」
「あなたは真珠塔というものをごぞんじですか。
高さ二十センチくらいの五重の塔で、そこに真珠の玉がビッシリとはりついているのです。
何百個あるともしれない最上の真珠でできた、宝玉の塔なんです。
この真珠塔は大正時代の大博覧会に、三重県の真珠王が出品したもので、亡くなった私の父がそれを買い取ったのです。
当時の値段で十万円でした。
今で言えば三千万円に近いものです。
あの目に見えないやつは、宝石商から首飾りを盗んだそうですが、あの首飾りの何十倍という値打ちのあるものです。
あいつはそれを知って、つけねらっているのじゃないかと思うのですよ。」
「その真珠塔はどこにおいてあるのですか。」
「誰も知らない場所にかくしてあります。
私が真珠塔を持っていることは世間でも知っているでしょうが、それがどこにあるかは、私と家内のほかは誰も知りません。
一郎も知らないのです。」
「このおうちの中ですか。」
「そうです。
あなたにはいろいろお力を借りなければならないので、うちあけてお話ししますが、じつは防空壕を改造した地下室の中の金庫に入れてあるのです。」
「防空壕ですって? そんなところにおいておいたら、危なくありませんか。」
「ところがそうではないのです。
防空壕といっても、厚いコンクリートでできた頑丈なものです。
戦争中は庭からも入れるようになっていましたが、今ではその入り口をコンクリートでふさいで土をかぶせてしまいました。
ですから入り口はたった一つ、私の洋室の書斎にあるだけです。
書斎の床が上げ蓋(あげぶた)になっているのです。
それも絨毯(じゅうたん)の下ですから、私でなければどこに上げ蓋があるかさえわかりません。
その上げ蓋をあけて床の下に入ると、そこにもう一つ厚い鉄の扉があります。
それは私の持っている特別な鍵でなければ開きません。
そこを入って階段をおりると、四畳ほどのコンクリートの部屋があり、そのまんなかに金庫がすえてあるのです。
金庫にも特別な鍵が入ります。
そのうえ暗号錠ですから、鍵があっても暗号を知らなければ開けることができないのです。」あれが狙われているなと思ったとき、銀行の金庫に預けることも考えてみました。
もちろん、銀行のほうが安全に決まっています。
しかし、銀行へ持っていくまでの道中が心配です。
相手は目に見えないやつですから、少しも油断ができません。
やはり、このまま地下室に置いておいたほうがいいように思うのです。

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