「おじちゃん、どこに行くの?」
女の子は人の影もない森の中を見回しながら、まだそれが誘拐だとも気づかずに無邪気に尋ねるのです。
「いいところです。お菓子やお人形がどっさりある、いいところです。」
道化服の男は東京の人ではないらしく、妙に癖のあるなまりで、一言一言区切りながら、言いにくそうに言いました。
「お嬢さん、お名前を言ってみなさい。なんという名前ですか。」
「あたし、タアちゃんよ。」
女の子はあどけなく答えます。
「もっと本当の名前は? お父様のお名前は?」
「ミヤモトっていうの。」
「宮本? 本当ですか、篠崎ではないのですか。」
「違うわ。ミヤモトよ。」
「では、さっき遊んでいたお家は、お嬢さんのお家ではないのですか。」
「ええ、違うわ。あたしのお家はもっと小さいの。」
それだけ聞くと、道化服の男は突然タアちゃんの手を離して、お面の中で「チェッ」と舌打ちをしました。
そしてもう一言も話さず、女の子を森の中に置き去りにしてサッサとどこかへ立ち去ってしまいました。
やがてその奇妙な出来事は、タアちゃんという女の子が泣きながら帰ってきて母親に話したことで町中の噂となり、警察の耳にも入りました。
幼い女の子の報告ですから森の中でのやり取りが詳しく分かったわけではありませんが、道化服のチンドン屋がタアちゃんを連れ去ろうとして途中でやめたらしいことだけは何となく分かりました。
前夜の黒い魔物と同じ手口です。
いよいよ、誰か五歳くらいの女の子が狙われているということがはっきりしてきました。
五歳くらいの女の子といえば、篠崎始君にもちょうどその年頃のかわいらしい妹がいるのです。
もしかすると怪物が狙っているのはその篠崎家の女の子なのではないでしょうか。前後の事情を考え合わせると、どうもそうらしく思えてならないのです。隅田川や上野の森など、東京中のあちこちにあの不気味な姿を現してはいたずらを繰り返していた黒い影は、だんだんとその出没する場所を狭めてきました。
桂正一君が出会った場所といい、篠崎君の小さな従妹がさらわれた場所といい、そして今度のタアちゃんが連れ去られそうになった場所といい、すべてが篠崎君の家を中心にしているのです。
怪物の目的が一体何なのかが、少しずつ見えてきました。
しかし、ただ子供をさらったり、その子を人質にしてお金を脅し取ったりする目的ならば、わざわざ黒い影などに化けて人をおどかす必要などありません。
これには何か、もっともっと深いたくらみがあるに違いありませんでした。
のろいの宝石
さて、門の前で遊んでいた女の子が連れ去られた、まさにその夜のことです。
篠崎始君のお父様は、非常に心配そうなご様子で顔色を青ざめさせ、お母様と始君をそっと奥の座敷へ呼び寄せました。
始君は、お父様がこれほどまでに打ち沈まれたご様子を、後にも先にも見たことがありませんでした。
「いったいどうなすったのだろう。
何か大変なことが起こったのだろうか」
とお母様も始君も、気がかりで胸がドキドキするほどでした。
お父様は座敷の床の間の前に腕組みをして座っていらっしゃいます。
その床の間には、普段は花瓶が置いてある紫檀の台の上に、今夜は奇妙なものが置いてありました。
内側を紫色のビロードで貼り付けた四角い箱の中に、恐ろしいほどピカピカと光り輝く、直径一センチほどの玉が入っています。
始君は、こんなに美しい宝石が自分の家にあることを、今まで少しも知りませんでした。
「私はまだお前たちに、この宝石にまつわる恐ろしい呪いの話をしたことがなかったね。
私はそんな話を信じていなかった。
くだらない話を聞かせてお前たちを心配させることはないと思って、今日まで黙っていたのだ。
けれども、もうお前たちに隠しておくことができなくなってしまった。
昨夜からの少女誘拐騒ぎは、どうもただ事ではないように思う。
私たちは十分に用心しなければならぬのだ」
お父様は打ち沈んだ声で、何か非常に重大なことを話そうとしているご様子でした。
「では、この宝石と昨夜からの事件とのあいだに、何か関係があるとでもおっしゃるのでございますか」
お母様もお父様と同じように顔色を青ざめさせ、息を殺すようにお尋ねになりました。
「そうだ。
この宝石には恐ろしい呪いがつきまとっているのだ。
その話がでたらめでないことが、いまやわかってきたのだ。
お前も知っているように、この宝石は一昨年、中国へ行ったとき、上海で外国人の商人から買い取ったものだが、その値段がひどく安かった。
時価の十分の一にも満たない、五万七千円という値段であった。
私はとんでもない掘り出し物をしたと思って喜んでいたのだが、あとになって別の外国人がそっと私に教えてくれたところによると、この石には奇妙な因縁話があって、その事情を知っている者は誰も怖がって買おうとしなかったからこそ、こんな安い値段で手放すことになったのだろうというのだ。
その因縁話というのはね……」
お父様はちょっと言葉を区切り、二人にもっと近くへ寄るようにと手招きをされました。
始君は少しお父様のほうへひざを進めましたが、なんだか恐ろしい怪談話を聞かされるような気がして、背中のあたりがうそ寒くなってきました。
気のせいか、いつもは明るい電灯の光が、今夜は妙に薄暗く感じられます。
「この宝石は、もとはインドの奥地にある古いお寺の本尊の、大きな仏像の額にはめこんであったものなのだそうだ。
始は学校で教わったことがあるだろう、白毫(びゃくごう:仏の額にある白い巻き毛の宝珠)というものだよ。
ことのおこりは今から百年も前の話だが、そのお寺の付近で戦争があって、お寺は焼け落ちてしまい、たくさんの人が死んだ。
そのとき、仏像の顔にはめこんであった宝石を、敵の兵士たちが持っていってしまったんだね。
それからというもの、宝石はさまざまな人の手を渡り、ヨーロッパの方へ買い取られていった。
非常に価値の高い宝石だから、誰もが高い代価を払って買い取るのだね。
また、その戦争のときに、その集落の殿様のお姫様が、敵の弾に当たって命を落としてしまった。
まだ若く美しいお姫様だったそうだが、殿様が大変かわいがっていらっしゃったばかりでなく、その集落のインド人たちもこのお姫様を神様のように敬っていた。
その大切なお方が敵の弾に当たって、はかなく死んでしまったのだ。
集落のインド人たちは、この二つの悲しい出来事を、いつまでも忘れることはなかった」仏像の命ともいうべき白毫を、一刻も早く奪い返さなければならない。
そして、愛するお姫さまの仇(かたき)を討たなければならない。
その二つの強い想いが一つに結びついて、この宝石につきまとう恐ろしい呪いとなったのだという。
そこはインドの中でも一番信仰の厚い村であり、村の人々はみんな、その仏像を気違いのように深く信じ、うやまっ ていたということだ。
仏さまのためならどんな辛いことも苦しいこともいとわない、命なんらいつでも投げ出してもいいという激しい気風だった。
コメント