ことに二十面相という怪物は、自らを魔術師と称しているほど、突飛な冒険が好きなのです。
松野はそのとき、みんなを呼べばよかったのです。
でも、彼は手柄を一人占めしたかったのでしょう。
他人の力を借りずに、その疑いを自分の手で晴らそうと思いました。
彼は電灯を地面に置くと、いきなり両手を伸ばして、竹切れをつかみ、ぐいぐいと引き上げました。
竹切れは三十センチほどの長さでした。
たぶん壮二君が庭で遊んでいて、その辺に捨てておいたものでしょう。
引っぱると、竹はなんなくズルズルと伸びてきました。
しかし、竹だけではなかったのです。
竹の先には、池の泥で真っ黒になった人間の手が、しがみついていたではありませんか。
いや、手ばかりではありません。
手の次には、びしょ濡れになった、海坊主のような人の姿が、ニューッと現れたではありませんか。
【樹上の怪人】
それから、池の岸でどんなことが起こったかは、しばらく読者諸君のご想像に任せます。
五、六分ののちには、以前の松野運転手が、何事もなかったかのように、同じ池の岸に立っておりました。
少し息遣いが激しいようです。
そのほかには変わったところも見えません。
彼は、急いで母屋の方へ歩きはじめました。
どうしたのでしょう。
少しびっこをひいています。
でも、びっこをひきながら、ぐんぐん庭を横切って、表門までやってきました。
表門には、二人の秘書が、木刀のようなものを持って、ものものしく見張り番を務めています。
松野はその前まで行くと、何か苦しそうに額に手を当てて、
「ぼくは寒気がしてしようがない。熱があるようだ。少し休ませてもらうよ」
と、力のない声で言うのです。
「ああ、松野君か、いいとも、休みたまえ。ここはぼくたちが引き受けるから」
秘書の一人が元気よく答えました。
松野運転手は、挨拶をして、玄関脇のガレージの中へ姿を消しました。
そのガレージの裏側に、彼の部屋があるのです。
それから朝までは、別段のこともなく過ぎ去りました。
表門も裏門も、誰も通過したものはありません。
塀の外の見張りをしていたお巡りさんたちも、賊らしい人影には出会いませんでした。
七時には、警視庁から大勢の係官が来て、邸内の取り調べを始めました。
そして、取り調べが済むまで、家の者は一切外出を禁じられたのですが、学生だけは仕方がありません。
門脇中学校三年生の早苗さんと、高千穂小学校五年生の壮二君とは、時間が来ると、いつものように自動車で屋敷を出ました。
運転手はまだ元気のない様子で、あまり口数も利かず、うなだれてばかりいましたが、学校に遅れてはいけないというので、押して運転席についたのです。
警視庁の中村捜査係長は、まず主人の壮太郎氏と、犯罪現場の書斎で面会して、事件の顛末を詳しく聞き取ったうえ、ひととおり邸内の人々を取り調べてから、庭園の捜索に取りかかりました。
「昨晩私たちが駆けつけましてから、ただ今まで、屋敷を出たものは一人もいません。塀を乗り越したものもありません。この点は、十分信用していただいていいと思います」
所轄警察署の主任刑事が、中村係長に断言しました。
「すると、賊はまだ邸内に潜伏しているというのですね」
「そうです。そうとしか考えられません。しかし、今朝夜明けから、また捜索を始めさせているのですが、今までのところ、何の発見もありません。ただ、犬の死骸のほかには……」
「えっ、犬の死骸だって?」
「ここの家では、賊に備えるためにジョンという犬を飼っていたのですが、それが昨晩のうちに毒死していました。調べてみますと、ここの息子さんに化けた二十面相のやつが、昨日の夕方、庭に出てその犬に何か食べさせていたということがわかりました。実に用意周到なやり方です。もしここの坊ちゃんが、罠を仕掛けておかなかったら、やつは、やすやすと逃げ去っていたに違いありません」
「では、もう一度庭を探してみましょう。ずいぶん広い庭だから、どこに、どんな隠れ場所があるかもしれない」
二人がそんな立ち話をしているところへ、庭の築山の向こうから、とんきょうな叫び声が聞こえてきました。
「ちょっと来てください。発見しました。賊を発見しました!」
その叫び声とともに、庭のあちこちから、あわただしい靴音が起こりました。
警官たちが現場へ駆けつけるのです。中村係長と主任刑事も、その声を聞きつけて駆け出しました。
行ってみると、声を上げたのは羽柴家の秘書の一人でした。彼は森のような木立の中にある、一本の大きなシイの木の下に立ち、しきりと上のほうを指さしています。
「あれです。あそこにいるのは間違いなく賊です。着ている服に見覚えがあります」
そのシイの木は、根元から三メートルほどのところで二股に分かれているのですが、そのまたになった部分に、茂った枝に隠れるようにして、ひとりの人間が奇妙な格好で横たわっていました。
これだけ騒いでも逃げ出そうとしないところを見ると、賊は息絶えているのでしょうか。それとも気を失っているのでしょうか。まさか、木の上で居眠りをしているわけではないでしょう。
「だれか、あいつを引きおろしてくれ」
係長の命令で、さっそく梯子が運ばれてきました。梯子に登る者、下から受け止める者と、三、四人がかりで、賊は地上におろされました。
「おや、縛られているじゃないか」
なるほど、細い絹ひものようなもので、ぐるぐる巻きに縛られています。そのうえ、猿轡(さるぐつわ)までされていました。大きなハンカチを口の中に押し込み、別のハンカチで固くくくってあるのです。それに妙なことに、洋服が雨にでも濡れたかのように、びしょ濡れになっています。
猿轡を外してやると、男はやっと息を吹き返したように、「ちくしょう、ちくしょうめ」と唸りました。
「あっ、きみは松野君じゃないか!」
秘書がびっくりして叫びました。それは二十面相ではありませんでした。二十面相の服を着てはいましたが、顔はまったくの別人です。間違いなく、お抱え運転手の松野なのです。
しかし、運転手といえば、つい先ほど早苗さんと壮二君を学校へ送るために出かけたばかりではありませんか。その松野が、どうしてここにいるのでしょう。
「きみは、いったいどうしたんだ」
係長が尋ねると、松野は「ちくしょう、やられたんです。あいつにやられたんです」と悔しそうに叫びました。
【壮二君のゆくえ】
松野の話によれば、結局、賊は次のような大胆な手段で、まんまと追っ手の目をくらまし、大勢の目がある中でやすやすと逃げ去ったことが分かりました。
人々に追い回されている間に、賊は庭の池に飛び込んで、水の中に潜ってしまったのです。ただ潜っているだけでは息ができませんが、ちょうどその辺りに壮二君がおもちゃにして捨てておいた、節のない竹切れが落ちていたため、それを持って池の中へ入り、竹の筒を口に当てて、もう一方の端を水面に出し、静かに呼吸をしながら追っ手が立ち去るのを待っていたのでした。
ところが、人々の後に残って一人でその辺りを見回していた松野運転手が、その竹切れを発見し、賊の企みに気づいたのです。思い切って竹切れを引っ張ってみると、果たして池の中から泥まみれの人間が現れました。
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