そこで闇の中の格闘が始まったのですが、気の毒な松野は助けを求める間もなく、たちまち賊に組み伏せられ、賊がポケットに用意していた絹ひもで縛り上げられ、猿轡をされてしまったのです。そして、服を取り替えられたうえに、高い木の股へ担ぎ上げられたという次第でした。
そうと分かってみれば、壮二君たちを学校へ送っていった運転手は、いよいよ偽物だと決まりました。大切なお嬢さんと坊ちゃんが、あろうことか二十面相自身の運転する自動車でどこかへ連れ去られてしまったのです。
人々がどれほど驚き、お父様とお母様がどれほど心配されたかは、くどくど説明するまでもありません。
まず早苗さんの行く先である門脇中学校へ電話がかけられました。すると、意外にも早苗さんは無事に学校へ着いていることが分かりました。
「では、賊は別に誘拐するつもりではなかったのだな」と大安心をして、次に壮二君の学校へ電話をかけて尋ねると、もう授業が始まっているのに壮二君の姿は見えないという返事です。
それを聞くと、お父様とお母様の顔色がさっと変わりました。賊は罠を仕掛けたのが壮二君であることを知ったのかもしれません。そして、足に受けた傷の復讐をするために、壮二君だけを誘拐したのかもしれません。
さあ、大騒ぎになりました。中村捜査係長はただちにこのことを警視庁に報告し、東京じゅうに非常線を張って、羽柴家の自動車を探し出す手配をとりました。幸い自動車の型や番号は分かっているのですから、手がかりは十分にあるわけです。壮太郎氏は、ほとんど三十分おきに学校と警視庁へ電話をかけさせ、その後の様子をたずねていました。しかし、一時間、二時間、三時間と、時は容赦なく過ぎ去っていくのに、壮二君の消息はいつまでたっても分かりませんでした。
ところが、その日のお昼過ぎになって、一人の薄汚れた背広に鳥打ち帽をかぶった青年が、羽柴家の玄関に現れて、妙なことを言い出しました。
「あたしは、お宅の運転手さんに頼まれたんですがね。運転手さんが、何だか途中で急に私用ができたとかで、代わりに頼まれて自動車を運んできたのですよ。車は門の中へ入れておきましたから、調べて受け取ってほしいんですがね」
秘書が、そのことを奥へ報告します。
それを聞いて、主人の壮太郎氏や支配人の近藤老人が玄関へ駆け出し、車を調べてみますと、確かに羽柴家の自動車に違いありません。しかし、中には誰もいないのです。壮二君は、やはり誘拐されてしまったのでした。
「おや、こんな妙な封筒が落ちていますよ」
近藤老人が、自動車のクッションの上から一通の封書を拾い上げました。その表には「羽柴壮太郎殿 必親展」と大きく書いてあるばかりで、裏を見ても差出人の名前はありません。
「なんだろう」
壮太郎氏が封を切り、庭に立ったまま読んでみますと、そこには左のような恐ろしい言葉が書き連ねてあったのです。
『昨夜はダイヤ六個、確かに頂戴しました。持ち帰って見れば見るほど見事な宝石、家宝として大切に保存します。しかし、お礼はお礼として、少し恨みがあるのです。何者かが庭に罠を仕掛けておいて、ぼくの足に全治十日間の傷を負わせたことです。ぼくは損害を賠償してもらう権利があります。そのために、ご子息・壮二君を人質として連れ帰りました。壮二君は今、拙宅の冷たい地下室に閉じ込められて、暗闇の中でシクシク泣いております。壮二君こそ、あの呪わしい罠を仕掛けた本人です。これくらいの報いは当然ではありますまいか。
ところで損害の賠償ですが、それには、ぼくはご所蔵の観世音像を要求します。ぼくは昨日、図らずも貴家の美術室を拝見する光栄を得たのですが、その立派さに驚き入りました。中でもあの観世音像は、鎌倉期の彫刻、安阿弥の作と説明書きがありましたが、いかにも国宝にしたいほどのもの。美術好きのぼくは、欲しくて欲しくてたまりませんでした。そのとき、どうあってもこの仏像だけは頂戴しなければならないと、固く決心したのです。
ついては今夜正十時、ぼくの部下のもの三名が、貴家に参上しますから、黙って美術室に通していただきたいのです。彼らは観世音像だけを荷作りして、トラックに積んで運び去る予定になっております。人質の壮二君は、仏像と引き換えに貴家へ戻るよう手配します。約束は二十面相の名にかけて間違いありません。
このことを警察に知らせてはなりません。また、部下のトラックのあとをつけさせてはいけません。もしそういうことがあれば、壮二君は永久に帰らないものとおぼしめしください。この申し出は必ずご承諾を得るものと信じますが、念のため、ご承諾の節は今夜だけ十時まで正門を開け放っておいてください。それを目印に参上することにいたします。
二十面相より
羽柴壮太郎殿』
なんという虫のよい要求でしょう。壮太郎氏をはじめ、皆、拳を握りしめて悔しがりましたが、壮二君というかけがえのない人質をとられては、どうすることもできません。残念ながら、この無茶な申し出に応じるほかに手立てはないように思われました。なお、賊に頼まれて自動車を運転してきた青年を捕らえて十分に詮議しましたが、彼はただ、いくらかお礼をもらって頼まれただけで、賊のことは何も知りませんでした。
【少年探偵】
青年運転手を帰すと、ただちに主人の壮太郎氏夫妻、近藤老人、それに学校の用務員さんに送られて車を飛ばして帰ってきた早苗さんも加わって、奥まった部屋で善後処置の相談が始まりました。もうぐずぐずしてはいられないのです。十時といえば、あと八、九時間しかありません。
「ほかのものならば構わない。ダイヤなどお金さえ出せば手に入るのだからね。しかし、あの観世音像だけは、わしはどうしても手放したくないのだ。ああいう国宝級の名作を、賊の手などに渡しては、日本の美術界のために済まない。あの彫刻は、この家の美術室に収めてあるけれど、決してわしの私有物ではないと思っているくらいだからね」
壮太郎氏は、さすがにわが子のことばかり考えてはいませんでした。しかし、羽柴夫人はそうはいきません。頭の中は、かわいそうな壮二君のことでいっぱいなのです。
「でも、もし仏像を渡すまいとして、あの子がどんなひどい目に遭わされるか分かりませんよ。いくら大切な美術品でも、人間の命には代えられませんわ。どうか警察などには知らせず、賊の要求通りになさってくださいませ」
おかあさまのまぶたの裏には、場所もどこだか分からない真っ暗な地下室で、たった一人ぼっちで泣きじゃくっている壮二君の姿が、はっきりと浮かんでいました。今晩の十時が待ち遠しくてたまらないのです。たった今すぐにでも、仏像と引き換えに壮二君を取り戻してほしい気持ちでした。
「うん、壮二を取り戻すのはもちろんだ。しかし、ダイヤを盗まれた上に、あのかけがえのない美術品まで、おめおめと賊に渡すのかと思うと、残念でたまらないのだ。近藤君、何か他に方法はないものだろうか」
「そうでございますね。警察に知らせれば、たちまち事態が公になってしまいますから、賊の手紙のことは今晩十時までは、外へ漏れないようにしておかねばなりません。ですが、私立探偵ならば……」
老人が、ふと一案を持ち出しました。
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