それに、ここには小さな警察分署しかありませんから、腕のいい刑事を呼ぶにしても時間がかかってしまいます。なにしろ二十面相は、今夜わしのところを襲うと言っているのですからね。ゆっくりはしていられません。ちょうどその日に、先生がこの温泉に来ておられるなんて、まさに神様のお引き合わせとしか言いようがありません。先生、老人として一生のお願いです。どうか、わしを助けてください!」
左門老人は、手を合わせんばかりの勢いで、必死に頼み込みました。
「それほどおっしゃるなら、ともかくお引き受けしましょう。二十面相はぼくにとっても敵です。早く現れてくれるのを待ちわびていたほどですから。では、ご一緒に行きましょう。その前に、いちおう警察とも打ち合わせをしておかなければなりません。宿へ帰って、ぼくから電話をかけましょう。そして、万が一の備えとして、刑事二、三人の応援を頼むことにします。あなたは一足先にお帰りください。ぼくは刑事たちと一緒に、すぐ駆けつけます」
明智の口調は、急に熱を帯びてきました。もう釣り竿などには見向きもしません。
「ありがとう、ありがとう! これでわしも、百万の味方を得た思いです」
老人は胸をなでおろしながら、何度も何度も感謝の言葉を繰り返すのでした。
◇
不安の一夜
日下部左門老人が、修善寺で雇った自動車を飛ばして、谷口村の「お城」へ帰ってから三十分ほどして、明智小五郎の一行が到着しました。一行は、体にぴったり合った黒の洋服に着替えた明智探偵のほかに、背広姿の屈強な紳士が三人。彼らはみな警察分署づきの刑事で、それぞれ肩書きの入った名刺を出して、左門老人と挨拶を交わしました。
老人はすぐさま、四人を奥まった名画の部屋へ案内し、壁に掛け並べた掛け軸や、箱に収めて棚に積み重ねてある、おびただしい国宝級の傑作を見せ、一つ一つその由緒を説明しました。
「これはまた、実におどろくべきコレクションですね。ぼくも古画は大好きで、暇があると博物館や寺院の宝物などを見て回るのですが、これほど歴史的な傑作がひとつの部屋に集まっているのを見たことがありません。美術好きの二十面相が目をつけたのも無理はありませんね。ぼくでさえ、よだれが垂れそうですよ」
明智探偵は、感嘆を隠しきれない様子で名画のひとつひとつに賛辞を並べましたが、その批評があまりに専門家顔負けの詳しさだったので、さすがの左門老人もびっくりしてしまいました。そして、名探偵への尊敬の念が、いっそう深まるのでした。
さて、少し早めに一同で夕食を済ませると、いよいよ名画を守るための配置につくことになりました。明智はテキパキとした口調で三人の刑事に指示を出し、ひとりは名画室の中へ、ひとりは表門、ひとりは裏口に、それぞれ徹夜で見張り番をさせることにしました。あやしい者の姿を見つけたら、ただちに笛を吹き鳴らすという合図まで決めたのです。
刑事たちがそれぞれの持ち場につくと、明智探偵は名画室の頑丈な板戸を外からピシャリと閉め、老人に鍵をかけさせました。
「ぼくは、この戸の前に一晩中頑張っていることにしましょう」
名探偵はそう言うと、板戸の前の畳廊下にドッカリと座り込みました。
「先生、大丈夫でしょうか。先生にこんなことを申しては失礼かもしれませんが、相手はなにしろ魔法使いのようなやつだそうですからね。わしは、なんだかまだ不安でたまらないのです」
老人は明智の顔色をうかがいながら、言いにくそうに尋ねました。
「ハハハ……、ご心配なさることはありません。ぼくはさっき十分調べましたが、部屋の窓には厳重な鉄格子がはめてあるし、壁は厚さが三十センチもあって、ちっとやそっとでは破れません。部屋の真ん中には刑事くんが目を光らせていますし、そのうえ、たったひとつの出入り口には、このぼく自身が頑張っているんですからね。これ以上、用心しようがないくらいですよ。あなたは安心して、おやすみなさったほうがいいでしょう。ここにおいでになっても、同じことですからね」
明智が勧めても、老人はなかなか承知しません。
「いや、わしもここで徹夜することにします。寝床に入ったところで、眠れるわけがありませんから」
そう言って、老人は探偵のそばに座り込んでしまいました。
「なるほど、ではそうなさるのがいいでしょう。ぼくも話し相手ができて好都合です。絵画論でも戦わせましょうかね」さすがに百戦錬磨の名探偵、憎らしいほど落ち着き払っています。
それから、ふたりは楽な姿勢になって、ポツポツと古名画の話をはじめたものですが、しゃべるのは明智ばかりで、老人はソワソワと落ち着きがなく、ろくろく受け答えもできないありさまでした。
左門老人には、一年も経ったかと思われるほど長い長い時間のあとで、やっと十二時の鐘が鳴りました。
真夜中です。
明智はときどき、板戸越しに室内の刑事に声をかけていましたが、そのつど、中からハッキリした口調で、異状はないという返事が聞こえてきました。
「アーア、ぼくは少し眠くなってきた」
明智はあくびをして、こう言いました。
「二十面相のやつ、今夜はやってこないかもしれませんよ。こんな厳重な警戒の中へ飛び込んでくるバカでもないでしょうからね……。ご老人、いかがです。眠気覚ましに一本。外国ではこんな贅沢なやつを、スパスパやっているんですよ」
そう言って、たばこ入れをパチンと開いて、自分も一本つまみ、老人の前へ差し出しました。
「そうでしょうかね。今夜は来ないでしょうかね」
左門老人は、差し出されたエジプトたばこを取りながら、まだ不安そうに言うのです。
「いや、ご安心なさい。あいつは決してバカじゃありません。ぼくがここに頑張っていると知ったら、まさかノコノコやってくるはずはありませんよ」
それからしばらく言葉が途絶えて、ふたりはそれぞれの考え事をしながら、おいしそうにたばこを吸っていましたが、それがすっかり灰になったころ、明智はまたあくびをして言いました。
「ぼくは少し眠りますよ。あなたもお休みになったらどうです。なあに、大丈夫です。『武士は轡(くつわ)の音に目を覚ます』と言いますが、ぼくは職業柄、どんな忍び足の音にも目を覚ますのです。心まで眠りはしないのですよ」
そんなことを言ったかと思うと、板戸の前に長々と横になって、目を閉じてしまいました。そして、まもなくスヤスヤとおだやかな寝息が聞こえはじめたのです。
あまりに慣れきった探偵のしぐさに、老人は気が気ではありません。眠るどころか、ますます耳をそばだてて、どんなかすかな物音も聞き漏らすまいと一生懸命でした。
何か妙な音が聞こえてくるような気がします。耳鳴りかしら、それとも近くの森の梢にあたる風の音かしら。
そして耳をすましていると、しんしんと夜が更けていくのがハッキリわかるようです。頭の中がだんだんとからっぽになって、目の前がもやのようにかすんでいきます。ハッと気がつくと、そのうす白いもやの中に、目ばかり光らせた黒装束の男が、ぼんやりと立ちはだかっているではありませんか。
「アッ、明智先生、賊です、賊です!」
思わず大声をあげて、寝ている明智の肩をゆさぶりました。
「なんです。
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