初級翻訳・大金塊 第28話

大金塊

こんなに激しく流れ込んでくるのだから、ここはほら穴の中でも海面よりはずっと低い場所に違いありません。
低いといっても、いったいどのくらい低いのでしょう。
もし二メートル、三メートルも低いのだとしたら、いまに水はこのほら穴の天井までいっぱいになってしまうはずです。
今はまだひざまでしかありませんけれど、やがてその水面がももから腰へ、腰からおなかへ、おなかから胸へとだんだん高くなって、しまいには立っているわけにもいかず、この墨のような暗闇の中でふたりは泳がなければならなくなるのではないでしょうか。
でも、いくら泳いでも、このほら穴を抜け出すことはできません。
両方の入り口は水面よりはずっと低いところにあるのですし、たとえそこまでもぐってみたところで、とても水のない場所まで泳ぎ続けることはできません。
ああ、ふたりはいったいどうなってしまうのでしょう。
この恐ろしい暗闇のほら穴の中で、溺れ死んでしまう運命なのでしょうか。わたしたちは、あの勇敢な小林君や、かわいらしい不二夫君に、もう二度と会うことができないのでしょうか。
生か死か

 聞こえるのは、ゴうゴうとうず巻いて返る水の音ばかり。
もうふたりは身動きすることさえできず、お互いの体をぎゅっと抱き合って、そこに立ちすくんでいるほかはありませんでした。
足の先におし寄せた水が、あっという間にひざの高さになり、やがて、パンツをぬらして腰の方へと上ってくるのです。
もうそのころには、両方の穴からあふれ出る水の音は聞こえなくなっていましたが、その方がかえって気味が悪いのです。
音がしなくなったのは、水かさが増して、水面が流れ込む水よりも高くなったためで、決して水が止まったわけではありません。
暗闇の中の水面は、音もなく、刻一刻と高くなって、抱き合っているふたりの体へとのぼってきたのです。
腰はもうすっかり水につかり、それからおなかが冷たくなり、しまいには胸のあたりまでも、ジャブジャブと真っ黒な水がのぼってきたのです。
体がふらふらして、もう立っていることもできません。
「きみ、泳げる?」
 小林少年が、のどのつまったような声で、不二夫君に尋ねました。
「うん、泳げるけど……だって、この穴の天井まで水がいっぱいになったらどうするの? ぼくたち息ができなくなるじゃないか。」
 それはもっともな心配でした。
この小部屋のような場所は、天井の岩もかなり高いようでしたが、いくら高くても、もしそこがほかの海面よりも低いとすると、その穴は水でいっぱいになってしまうかもしれません。
そうすれば、ふたりは息もできなくなって、おぼれ死ぬほかないのです。
「不二夫君、明智先生はね、いつもぼくにこう言って教えてくださるんだよ。
もし、命が危ないというような目にあったら、たとえ助かる見込みがないと思っても、最後の一秒までがんばらなきゃならないって。
決してあきらめてしまわないで、なんでもいいから、少しでも助かるように、できるだけの力をふりしぼって働くんだって。
そのことを、運命と戦うっていうんだよ。
戦わないで負けてしまっちゃ、だめなんだよ。
だからね、きみ、失望しちゃいけないよ。
最後までがんばるんだ、さあ、泳ごう。
泳いで、泳いで、この水のやつと根比べをしてやろうじゃないか。」
 さすが明智探偵の名助手と言われるだけあって、小林君はけなげな決心をして、自分より小さい不二夫君をはなすのでした……ではなく、励ますのでした。
不二夫君も、この力強い言葉に、少し元をとりもどしました。
そして、ふたりは手をつないだまま、真っ暗な冷たい水の中で、立ち泳ぎを始めました。
ただ浮いてさえいればいいのですから、別に疲れるようなことはありませんでしたが、ただでさえ寒い地の底で水の中につかっているのですから、その冷たさは並大抵のものではありません。
幸い春の終わりの暖かい気候でしたから、海の水もそれほど冷たくはなかったのですが、もしこれが冬のさなかのできごとでしたら、ふたりはたちまち凍え死にしてしまったに違いありません。
「不二夫君、しっかりしたまえ。
下っ腹に力を入れて落ち着いているんだよ。
こうして泳いでいるうちに海が引き潮になるよ。
そうすれば水が流れこまなくなるし、ここにたまった水も、岩のすきまから外へ流れだしてしまうにきまっているからね。
ぼくらはただ、がんばっていればいいんだよ。」
 小林君は暗闇の中で、しきりに不二夫君を励ましました。
「ぼく、目が見えなくなっちゃったんじゃないかしら。
ほんとうに、なんにも見えないんだもの。
きみは何か見える?」
 不二夫君は泳ぎながら、心細そうに尋ねました。
「ぼくだって、見えないよ。
目が見えないって、こんなもんだろうね。」
 ほんとうに、目というものがなくなってしまったのと同じことでした。
ただ声が聞こえるのと、水の冷たさと、握り合っているお互いの手ざわりがあるばかりなのです。
みなさん、ちょっと目をつぶって、このふたりの様子を考えてごらんなさい。
こんなさびしく、心細く、恐ろしい気持ちがまたとあるでしょうか。
しばらくして、不二夫君が泣き出しそうな声で言いました。
「ねえ、まだ水が増えているんだろうか。」
「うん、まだ引き潮にはならないだろうね。
ぼく、もぐって調べてみようか。」
 小林君はあくまで元気でした。
「よしてよ、手を離しちゃいやだよ。」
 不二夫君は、この暗闇の中で一度手を離したら、それっきり小林君とはぐれてしまうような気がしたのです。
「だいじょうぶだよ。
ちょっともぐってみるよ。」
 小林君はそう言ったかと思うと、握り合っていた手を離して、ぐうんと水の底へ沈んでいきました。不二夫君は、その水音を聞いて、もう気が気ではありません。
名を呼んだところで、水の中の小林君に聞こえるはずはありませんから、呼びたいのを、じっとがまんして、耳をすまして待っていました。
わずか三、四十秒のあいだでしたが、それが不二夫君には、とても長く感じられたのです。
すると、ややしてから、ガバガバと水が動いて、ブルッと手で顔の水をふく音が聞こえました。
そして、小林君の声がさけびました。
「わあ、深い。
とてもふかいよ。
だいじょうぶ二メートル以上あるよ。
まだぐんぐん水が流れこんでいる。」
「え、まだ流れこんでいる?」
 不二夫君はがっかりしてしまいました。
いや、がっかりしたばかりではありません。
さっきのことが、また心配になりはじめたのです。
このほら穴の天井まで、水でいっぱいになって、息ができなくなるのではないかという、あのおそろしい考えが、ひしひしとよみがえってきたのです。
不二夫君が、そのことをいおうかいうまいかと、ためらっていますと、またしても、小林君が、びっくりするようなさけび声をたてました。
「あ、へんだな。
ねえ、不二夫君、水が流れはじめたよ。
ぼくらはどっかへ流されているんだよ。
わからない? ほら、ぐんぐん流れているじゃないか。」
 そういわれて、気をつけてみますと、いかにも、急に水が動きだしていることがわかりました。
「あ、ほんとだ、それじゃ、いよいよ引き潮になったのかしら。」
 不二夫君も、大きな声でさけびました。

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