初級翻訳・一寸法師 第4話

一寸法師

翌日、小林紋三は十時ごろまで寝坊をしていました。近所の小学校の運動場から聞こえてくる騒がしい声でふと目を覚ますと、雨戸の隙間から差し込んだ日光が、彼の油ぎった鼻の頭をまぶしく照らしていました。彼は寝床から手を伸ばして窓の戸を半分だけ開けると、布団の中に腹ばいになったまま、タバコを吸い始めました。

「昨夜の俺は、少しどうかしていたな。安来節でも聞きすぎたのか」

彼は寝起きの口をムチャムチャとさせながら、独り言を言いました。すべてが夢のようでした。お寺の真っ暗な庫裏の前に立ち、中の様子をうかがっているうちに、だんだんと興奮が冷めていったのです。真夜中の冷気が身にしみるようでした。遠くの街灯の光を背に受けて、真っ黒く立ち並んでいる大小様々な石塔が、まるで魔物の群れのように見えました。別の恐怖が彼を襲い始めました。どこかで、押しつぶしたような嫌な鶏の鳴き声がしました。それを聞くと彼はもう堪らなくなって、逃げ出してしまったのです。

墓場を通り抜ける時は、何かに追いかけられているような気分でした。それから、夢の中の街のように、どこまで行っても抜け道のない複雑な迷路を歩き、ようやく電車道の大通りまでたどり着くと、ちょうど通りかかったどこかの帰りらしい空のタクシーを呼び止めて、下宿まで帰りました。運転手が面倒くさそうに行き先を尋ねた時、彼はふと昨夜の場所を言おうとしましたが、思い直して下宿のある町を告げました。彼はなんだか非常に疲れていたのです。

「俺の錯覚なんだろう。人間の腕の風呂敷包みなんて、どう考えても馬鹿馬鹿しいからな」

部屋中に満ち溢れる春の陽光が、彼の気分をがらりと快活にしました。昨日の変てこな気持ちが嘘のように思えました。彼はひとつ大きく伸びをして、下宿の主婦が置いていってくれた枕元の新聞を広げると、いつもの癖でまず社会面に目をとおしました。

別に面白い記事も見当たりません。三段抜きや二段抜きの大見出しは、ほとんど血なまぐさい犯罪記事ばかりでしたが、こうして活字になったものを見ると、どこかよその国の出来事のようで、一向に迫ってくるものはありませんでした。

ですが、今まさに別の面をめくろうとした時、ふとある記事が彼の注意をひきました。それを見ると、彼は何かしらギクリとせずにはいられませんでした。そこには「溝の中から、女の片足、奇怪な殺人事件か」という三行の見出しで、次のような記事が記されていたのです。

『昨六日午後、府下千住町中組――番地往来の溝川をさらっているうち、人夫の木田三次郎がすくい上げた泥の中から、おもりの小石と共にしまの木綿風呂敷に包んだ生々しい人間の片足が現れ大騒ぎとなった。戸山医学博士の鑑定によれば、切断後三日位の二十歳前後の健康体の婦人の右足を膝関節の部分から切断したもので、切り口の乱暴なところを見れば外科医等の切断したものでないことが判明したが、付近には右に該当する殺人事件又は婦人の失踪の届け出なく、今のところ何者の死体なるや不明であるが、――署では極めて巧妙に行われた殺人事件ではないかと目下厳重調査中である』

新聞ではそれほど重大に扱っているわけでもなく、文章もごく簡単なものでしたが、紋三の目にはその記事がメラメラと燃えているように感じられました。彼は布団の上にムックリと起き上がると、ほとんど無意識のうちに、同じ記事を五度も六度も繰り返し読んでいました。

「多分、偶然の一致なんだろう。それに昨夜のは俺の幻覚かもしれないのだから」

と強いて気を落ち着けようとしても、その直後にあの奇怪な一寸法師の姿が――寂しい場末の溝川の縁に立って、風呂敷包みを投げ込もうとしている、あの物すごい形相が、まざまざと目の前に浮かんできたのです。

彼はどうするという当てもなく、何かに追い立てられるような気持ちで寝床から起き上がると、大急ぎで着替えを始めました。どういうつもりか、彼は洋服箱の中から仕立ておろしの合のサック・コートと、春外套を出して身につけました。学校を出てからまだ仕事を持たない彼にとって、これが一張羅の外出着で、かなりの自慢の品でもありました。上下おそろいのしゃれた空色が、彼の容貌によく映りました。

「まあ、おめかしして、どちらへお出かけ?」

下の茶の間を通ると、奥さんが後ろから声をかけました。

「いえ、ちょっと」

彼は変な挨拶をして、そそくさと編み上げ靴のひもを結びました。しかし、格子戸の外へ出ても、彼はどこへ行けばいいのか、少し見当がつきませんでした。一応警察へ届けようかとも思いましたが、それほどの自信もなく、なんだかまだあれを自分だけの秘密にしておきたい気持ちもあったのです。

とにかく昨夜の寺へ行って様子を探ってみるのが一番よさそうでした。あるいは昨夜の出来事はすべて彼の幻覚に過ぎなかったのではないか。そんなことがしきりに考えられました。もう一度、昼の光の下で確かめてみないでは安心ができなかったのです。彼は思い切って本所まで出かけることにしました。雷門で電車を降りると、吾妻橋を渡って、うろ覚えの裏通りへと入っていきました。
その辺り一帯が、夜と昼とではまるで様子の違う場所に思えて、一寸、狐につままれたような不思議な気分でした。
同じような裏町を何度も何度も行ったり来たりしているうちに、ようやく見覚えのある寺の門前にたどり着きました。
その辺りはごみごみした町に囲まれながらも、無駄な空き地などがあって、どこか変にさびしい場所でした。
門の前にはポツンと一軒だけ、田舎めいた駄菓子屋があり、お婆さんが店先でうつらうつらと日なたぼっこをしていました。

紋三は、さえた靴音を響かせながら門の中へ入っていきました。
そして昨夜の庫裏(くり)の入り口に立つと、思い切って障子をあけました。
ガラガラとひどい音が響きました。
「御免ください」
「はい、どなたですかな」
十畳ほどのガランとした薄暗い部屋に、白い着物を着た四十歳くらいの坊さんが座っていました。
「一寸伺いますが、こちらに、あのう、身体の不自由な方が住んでいらっしゃるでしょうか」
「えっ、何ですって? 身体が不自由と申しますと?」
坊さんは目をパチクリさせて問い返しました。
「背の低い人です。確か昨夜、非常に遅く帰られたと思うのですが」
紋三は自分が変なことを言い出したなと意識するにつれ、ますます言葉がしどろもどろになりました。
来る道すがら考えておいた作戦なんて、どこかへ飛んでいってしまいました。
「それは、お門違いじゃありませんかな。ここには人を置いたりしませんよ。背の低い身体の不自由な者なんて、一向に心当たりがございませんな」
「確かにこのお寺だと思うのですが、付近に他に寺はありませんね」
紋三は疑い深そうな顔をして、庫裏の中をじろじろと眺め回しながら言いました。
「近くにはありませんな。だが、おっしゃるような人はここにはおりませんよ」
坊さんは、「変な奴だ」と言わんばかりに紋三をにらみつけて、無愛想に答えました。

紋三はもう持ちこたえられなくなって、このまま帰ろうかと思いましたが、ようやく勇気を出して続けました。

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