初級翻訳・海底大陸 第5話

海底大陸

あのしっかり者の事務長が、仕事中に居眠りをするとはどうしたことだろうと、少し不思議に思いましたが、少年はそのまま室外へと駆け出しました。なぜなら、事務長に注意をしてやることよりも、このとき、もっと少年の注意をひくことが起こっていたからです。

それは異様な臭いでした。なんというか、非常になまぐさい一陣の風が、室外から吹き込んできたのです。

「その臭さといったら、めずらしい臭さなんですよ。これまでにあんな変なにおいをかいだことがないんです」

少年はベッドの上で胸を押さえながら、眉をひそめました。それから三千夫は甲板へと飛び出しました。夜でした。明るい甲板の灯りが、海面を船のまわりだけ照らしていました。そのとき彼は不思議なものを見ました。白く泡だった波が、逆流してくるのでした。そして水面は急にグングンと上がってくるのでした。その時、船体はなにかにつきあたったのか、ゴトンゴトンと揺れはじめました。

「沈没だッ!」

三千夫は、とっさにそう思いました。彼はメリー号の名のついている浮標を身体につけました。船体はグラッと右にかたむきだしました。甲板を走っていた少年は、何かにつまずきました。そして、あッという間もなく海中にドブンと放り出されたのです。頭の上から、つめたい海水がどっと滝のように落ちてきました。彼はそこまでは覚えていましたが、あとは気を失ってしまいました。気がついてみると、彼は浮標を体に結びつけて、海上をただよっていたのです。いつしか夜は明けていました。ルゾン号に救い上げられたのは、それから四、五時間後のことだったといいます。

エバン船長は、三千夫が遭難の体験談を語り終えると、椅子から立ち上がり、少年の手を握って、その幸運を祝いました。スミス警部は、黙り込んだまま何かを熱心に考えていました。

海賊潜水艦説

三千夫少年は、元気になって甲板に出られるようになりました。ルゾン号は、メリー号遭難の地点と思われる海面を、ぐるぐると回っていました。船底からは海底に向け、絶えず信号音が発せられ、それが海底から船底に再び返ってくる音の強さと時間とが測定されていました。これは水深測定器でした。もしどこかにメリー号の船体が沈んでいたとすれば、返ってくる音の強さと時間とが急に違ってくるはずだったのです。しかし、メリー号の船体らしいものには、なかなかつきあたりませんでした。

スミス警部は三千夫のお守り役のようにして、少年のそばにいつもくっついていました。が、このとき肩をたたきながら話しかけました。

「三千夫君、きみのほかに、浮標をつけて海中に飛び込もうとしていた者はありませんでしたか」

「さあ――」

と言いましたが、考えてみると、他に誰もそんな人を見かけなかったようです。この旨を答えると、スミス警部はギロリと眼玉を動かして、

「それは変ですネ。他の人は、どうして気がつかなかったのでしょう」

本当に不思議です。船が沈没するらしいと、三千夫だけが気がついたというのはおかしい。しかもそのときのメリー号が、正常な状態にいたとは決して考えられません。

(なぜ、ほかの人は気がつかなかったのだろう?)

三千夫は目をぱちぱちさせて考え込みました。

「あッ、そうだ。サケ料理のせいかもしれません」

「えッ、サケ料理とは?」

スミス警部は、いきなりサケ料理の話が出たので面くらいました。しかし彼は、ぜひその話を聞かせてくれるようにと少年に頼みました。三千夫は例のサケの大漁から、その日の夕食にサケ料理が出た話をしたのです。

「サケ料理を食べた人は、皆眠くなったんじゃないでしょうか」

「さあ――」

とスミス警部はあごをなでました。

「どうもサケを食べて眠くなったという話は聞いたことがありません。しかしサケが大漁だったとは変な出来事です」

少年は、どうしても、あのサケ料理が怪しいように思えました。

「じゃ警部さんは、メリー号がどうして遭難したと思うのですか」

三千夫の大きな質問に、スミスは少しタジタジとした様子でしたが、やがて静かに言いました。

「わたしの考えでは、やはり、これは怪潜水艦を利用する海賊団の仕業だと思うのです」

「海賊団ですって。海賊団がメリー号を打ち沈めたのですか」

「いや、海賊団はメリー号の財宝を盗るのが目的だから、沈めないで、どこかへ連れて行ったと思います。もし沈めたとすると漂流物がなければならない。ところが漂流していたのは君ひとりではありませんか。だからメリー号は安全に、どこかの海上を引かれているのだと思います」

探偵らしい説でした。少年の沈没説と、スミス警部の捕獲説と、どちらが正しいのだろうか。

怪しき目ざめ

 なんだか黄色い粘液のようなものが、あたりでしきりにグルグルと渦を巻いています。その渦は大きくなったり小さくなったり、また横に細長くなったり、そうかと思うと風に吹き飛ばされたようにスッと消えてしまったり……。
「ううっ、いやな臭いだ」
 全くいやな臭いでした。胸がムカムカして、胃袋が裏返しになりそうです。
「――おい、そんなくさいものを置いていくなんて困るよ。早くとりかたづけないか。ボーイはいないのか。おい、ボーイ、ボーイ!」
 事務長のクーパーは、クイーン・メリー号の自室の中で、しきりに自分の胸をかきむしっていました。今までにひどくひっかいたのか、制服の金ボタンは取れ、ネクタイは外れ、白いワイシャツは真っ赤な血で痛々しく染まっています。
「ああ、わたしはどこにいるのだろう。豆スープのように濃い霧だ。なんにも見えない。こんなひどい霧に出くわしたのは、わたしの長い海上生活でも初めてだ」
 事務長のクーパーは、手探りで室内をそろそろと歩き出しました。しかし、とたんにガタンと大きな音がして、彼は下にどうと倒れてしまいました。
「あッ、いたたっ!」
 何やら硬いものに、痛いほど腰骨をぶつけました。手探りで確かめると、そこに椅子がひっくり返っていたことがようやく分かりました。
「ああ臭い。これは何の臭いだ」
「どうもひどい霧だ。何も見えやしない」
 甲板でも船室でも、同じようなことでひどい騒ぎが起こっていました。船員も乗客も、妙なへっぴり腰で、床の上をごそごそと這い回っていました。甲板の上では、しきりに人とぶつかって、いまいましさに怒鳴る声が聞こえてきます。
「船長、いま本船はどこを航海しているのか。どうも変だぞ」
「うむ、たしかにどうも変だ。機関の音はしているが、波の音が聞こえないじゃないか」
「船がすこしも揺れていないぞ。――うわーっ、海はどこかへ行っちまったッ」
 船客たちの怒号が、だんだん激しくなっていきました。
「海がどこかへ行ってしまったって? そんな馬鹿なことが……」
 甲板へ這い出してきた事務長クーパーは、それを聞きとがめました。
「フン、うちの船客は気が狂ったらしい。海の上を走っているのに、海がどこかへ行ってしまったなんて……」
 と言いかけて、クーパーはハッと息をのみました。
「ありゃりゃ。海の音が聞こえないぞ。これはひょっとすると、本当に海がどこかへ行ってしまったのかもしれない。

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