そのへんを、すーっと歩いていましたよ」
幽霊
「おどかすなよ」
と、パイ軍曹は、鉛筆で線を引いたような細い口髭を動かして、言いました。
「いえ。
本当です。
軍曹どのとは、全くちがった服装をしていました。
幽霊の足音が、ことんことん床を鳴らしたのを、聞いたようですよ」
「ふーん」
パイ軍曹の顔が、なぜか、さっと変わりました。
そしてピート一等兵を、じっと睨み据えていましたが、やがて口をひらき、
「その幽霊なら、さっき、わしも、ちょっと見たよ」
と、今度は軍曹が、変なことを言い出しました。
「はあ、軍曹どのも、見たでありますか。
じゃあ、夢じゃなくて、本物の幽霊が、この戦車の中に現れたんですね。
ううッ」
と、大男のピート一等兵は、肩をすぼめました。
戦車の中に、幽霊が現れるなんて、途方もない話です。
相当、戦場ではたらいてきた戦車なら、そのとき戦死した勇士の幽霊が、出てくるかもしれません。
だが、これは新しく出来たばかりの戦車なのです。
戦争に出たことは、一度もない。
その戦車に、幽霊が出てくるなんて、変なことです。
「あははは」
と、パイ軍曹が、とつぜん笑い出しました。
「軍曹どの、なにが、おかしいのですか」
「あははは」
軍曹の声は、戦車の壁に反射して、妙に、ううーんと後をひきました。
ピート一等兵は、肩のうえに、手をかけながら眼を丸くしました。
「おい、ピート一等兵。
幽霊が出るなんて、嘘だよ」
「はあ、嘘ですか」
「つまり、これは生理的な現象だ。
いいかね。
おれたち二人は、さっきから、同じように頭をがんがんとうったじゃないか。
だから、同じように、頭がへんになって、同じように幽霊みたいなものの姿が、見えたというわけだよ」
「ははン、同じように頭がへんになって、同じような幽霊の姿が、頭の中にうかび出たというわけですか。
なるほど、そうかもしれませんなあ。
軍曹どと自分とは、前から、双生児のように、なんでも気が合うのですから、そういう場合に、二人の頭の中に、別々に出てくる幽霊が同じ姿をしていても、格別不思議ではないわけですなあ。
なるほど、ああなるほど」
「お前のように、臆病で、びくびくしていると、西瓜が、機雷に見えたりするのだ。
しっかりしろ。
あははは」
パイ軍曹は、笑いました。
だが、その笑い声は、あまり朗らかであるというわけにはいかず、どっちかというと、とってつけたような笑い声でした。
それでも、ピート一等兵は、やっと、落ち着いたようでした。
「なあに、自分は、たいていの物にはおどろきませんが、幽霊ばかりは、苦手なんですよ。
あのひきずるような足音、そして地の底から呼んでいるようなあのうつろな声、あいつは、まっぴら御免ですよ」
そう言いながら、彼はポケットをさぐって、煙草を探しました。
だが、煙草は、ありませんでした。
「あれ、煙草がない。
しまった、船へ、おいてきた。
軍曹どのは、お持ちですか」
「なんだい、煙草か。
うん、煙草なら、ここにあるが、まさか、この戦車の中じゃ、油があるから、危なくて吸えないよ」
「ははあ、なるほど」
と、ピートは、うらめしそうです。
「あっ、たいへんだ。
軍曹どの」
「なんだ、おどかすなよ」
「たいへんですよ、これは。
煙草のないのはいいが、一体これからのわれわれの食事はどうなるんでしょうか」
「うん、そのことには、よわっているんだ。
しかし、一体われわれは、いつまで生きているかということの方が、先の問題だよ。
まあ、どうせ、無い命なんだから、それまでは、朗らかにやろうぜ」
「朗らかにやれといっても、食うものがなくちゃ、朗らかにやれませんぜ」
「ぜいたく言うな。
とにかく、この戦車は、深い深い海底へおちこんでいるんだから、救援隊は来っこなしさ。
ただ、こうして死をまつばかりだよ」
「いやだなあ。」「どうせ乗るなら、戦車よりもボートの方がましだったな」
「どうしてだ?」
「だって、ボートに乗っていれば、空を見上げれば天から降ってくる雪を口に入れることができるし、たまには近くの流氷の上に白熊が乗っているかもしれない。そうすれば銃をぶっ放して、白熊の肉にありつけるかもしれないでしょう」
「やめろ、そんなうまそうな話は! よけいに腹が減って、よだれが出るばかりだ」
と、パイ軍曹は腹を立てました。
林檎
傾いた戦車の中に、電灯だけは贅沢にも煌々と照っています。
ピート一等兵は、大きな図体を小さく縮めながら、気絶したかのように床を見つめていました。
(ああ、なんとかして、もう一度パンというものをむしゃむしゃ食べてみたい。娑婆には、昔ビフテキなんていううまいものがあったなあ)
そんなことを考えているうちに、ピート一等兵は「おや?」という表情で、鼻をひくひくさせました。
(おや、なんだか食べ物の匂いがする!)
彼は、くすんくすんと鼻を鳴らしました。
すると突然、まるで御伽噺のようなことが起きました。
それは、傾いた戦車の鉄板の床の上を、林檎のような形をしたものが、ころころとピート一等兵の足元へ転がってきたのでした。
彼は太い指で、何度も目をこすりました。
(あれえ、俺の目はどうかしているぞ。あまり食べ物のことを考え続けたせいで、とうとう俺の頭は変になって、ありもしない林檎が目の前に見えるんじゃないか)
目をぱちぱちさせてみましたが、確かに彼の足元には林檎が落ちています。
彼は何度も手を伸ばそうとしては、いやいや、手を出してはならないと、はやる心を押さえました。
なぜなら、手を林檎の方へ伸ばした最後、せっかくの林檎がシャボン玉に触れたように、すっと消えてしまうのではないかと思ったからです。
幻にしても、林檎の形が見えている間は楽しいものです。幻が消えてしまえば、どんなに寂しいことでしょう。
それを考えると、ピート一等兵は手を伸ばすこともできず、体を石のように固めて、足元へ転がってきたその怪しい林檎を見つめました。
しかし、その林檎の色はあまりに美しかったのです。真っ赤なつやつやした色が、食欲をそそり立てずにはおきませんでした。
そして、あの甘酸っぱい林檎の匂いまでが、つーんと彼の鼻をつき刺したように感じられたのです。
ついに、ピート一等兵は幻の林檎の誘惑に負けてしまいました。
彼はぶるぶると震えながら手を伸ばし、思い切って林檎をつかみました。
「おやっ」
大きなおどろきの声が、彼の口から飛び出しました。
「あっ、本物の林檎だ!」
彼はその場に躍り上がりました。林檎を頭の上に押しいただきながら……。そして、ひょっとしたら自分は、とうとう気が変になってしまったのかもしれないと考えながら……。
「おい、どうした、ピート一等兵。しっかりしろ。気を静めなくちゃ……」
パイ軍曹は、突然ピートが騒ぎ出したので、これまた心臓が破裂しそうなほど驚きました。
「軍曹どの。奇蹟です。大奇蹟です」
「なんだ、奇蹟とは」
「あり得ないことが起きたのです。ほら、この林檎です。自分の足元へころころと転がってきました。この林檎がですよ」
「あっ、林檎だ! こっちへよこせ」
「だめです。
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