初級翻訳・火星兵団 第84話

海野 十三

どうぞ、明晩の月を御注意下さい」
 矢ヶ島天文台は、すこぶる内気で、人々にこう呼びかけるのであった。

明晩の月? 果してどういう月が眺められたであろうか。
いくら矢ヶ島天文台の台長がおかしいにしろ、こう度々月のことばかりを言出すものだから、一度、その放送を聞いて気になり出した人は、そのあとも矢ヶ島天文台の放送を聞かないではおられなくなった。

さて『明晩の月』と、昨日の放送で注意のあった月が、いよいよ夕刻から空に出たのであった。
もういよいよ満月に近い明かるい月だった。
空は雲もなかった。
いやなモロー彗星の光の尾が、水平線から斜にぼうっと明かるく空を染めているが、これさえなければ、今宵は静かな美しい月の出よと、人々は楽しんだにちがいない。
とにかく、その月が上ったのである。
気にしていた連中は窓に寄ったり、屋根に上ったり、または望遠鏡を持出して、その月の面を眺めたのであった。

「なあんだ。
別に、あのお月さまは少しもちがっていないじゃないか」
 いつも見る月と、月の面は少しもかわったことがない――と、そう思った人々は腹立たしさを感じた。
いよいよ矢ヶ島天文台の台長のため、一ぱい食わされたかと思ったからである。

ところがその中に、
「おやおや、どうもおかしいぞ!」
 と、首をひねった熱心な素人天文家が二、三いた。
「どうもおかしい。
スミスの海が、すっかり見えなくなった。
おやおや、これは今まで地球からは見えなかった月の面が、あそこのところへ見え出したぞ。
そうだ、あの山なんか始めてお目にかかる山だ! これは不思議だ」

不思議なことである。
これがほんとうなら、月はこのところ急に地球に対して、少し軸をかえたらしいのである。
果してそれにまちがいなければ、たしかに月は異常運動を始めたのである。
一体それは、これからどんな影響を我が地球の上におよぼすのであろうか。
矢ヶ島運動――と、後になって、この変な月の運動のことを呼ぶようになった。

(妖星モローが、一たび地球に襲いかかると、月さえ怪しげな運動を始める。
何という歎かわしいことか!)
 そんな風に、矢ヶ島運動のことを歎く人もあった。
さすがの蟻田博士も、このことには気がつかなかった。
ちょうど博士は、地底深くはいって、例の十号ガスの製造に一生懸命になっていて、その他のことは、一切打棄ててあったのである。
矢ヶ島運動が発見されたのは、その間の出来ごとであったのだ。それはアマチュアの天文学者によるものすごい大発見だったのですが、その時は、誰もそれがすごい大発見だということに気がつきませんでした。
なにしろ、もうあと数日後に地球がこわれてしまうという時のことですから、みんなすっかり頭に血がのぼっていて、そんなことを落ち着いて考えてみる人もいなかったのです。それに矢ヶ島本人も、ある程度の予想はしていたものの、とても内気な人だったので、「自分のような素人が言いだして、もしも間違っていたら申し訳ないな」と、つまらない遠慮をしていたわけでした。
この「矢ヶ島運動」が、あとにどれほど大がかりで重大な事件をひきおこすことになるか、それについては、今はもう少し書くのを待つことにしましょう。
新田先生も、この時は少しボーッとしていたと言えます。
しかし、それも仕方のないことでした。
先生は、あの蟻田博士が、人類のために自分の身を挺して火星人と戦うと言ってくれたので、そのうれしさのあまり、先生まですっかりのぼせあがってしまっていたところがあったからです。
それで先生は、そのあいだ何をしていたかというと、一生懸命に食料品を集めていたのでした。
これから宇宙へ飛び出して、火星兵団と戦うことになれば、長いあいだ地球を離れることになるだろうから、そのあいだに博士をおなかすかせたら一大事だと思ったからなのです。
……ある朝、突然、蟻田博士が部屋へもどってきました。
約束どおり、ちょうど三日目のことでした。

53 ガスピストル

蟻田博士がもどってきました。
それは約束にたがわず、ちょうど三日目のことでした。
「あ、博士。うまくいきましたか?」
新田先生は、なによりもまず、そのことを聞かずにはいられませんでした。
「ああ、だいたいうまくいったつもりだ。これからは毎日、十トンずつの『十号ガス』の原液をつくりだせることになった。これだけあれば、火星人と戦っても、まず大丈夫だろう」
「ほう、そんなにたくさんできるのですか!」
新田先生は目をまん丸くしました。
いったい、どこまで蟻田博士はすごいのでしょうか。そのすごさは底が知れません。
なにも知らない人から見れば、博士はまるで魔法使いのように見えることでしょう。
しかし、博士は魔法使いではありません。
六十年近くというもの、研究にすべてをささげた、その尊い努力の結果なのです。
「その十号ガスの原液は、どこにあるのですか?」
「水道の蛇口みたいに、管から出るようになっているよ。原液をつくる機械が動くと、原液ができる。それを地下のタンクにためる仕組みになっているんだ。そのタンクには、別に空気をギュッと押し出すポンプがとりつけてあるから、管のコックをひねれば、その原液は水のようにいくらでも出てくるのさ」
博士はまるで何でもないことのように言います。
「ははあ、驚きましたねえ! ところで、その原液を私たち人間がかぶると、どうなるのですか? やっぱり体が蒸発してしまったりするのですか?」
「いや、そんなことはない。人間の体を蒸発させるような、そんなものじゃないよ。しかし、何か特別な作用はあると思うんだが、それを試しているひまがなかったんだ。なんといっても、早くこれを使わないと、火星兵団に地球がほろぼされる前にすっかり占領されてしまうからねのう」
博士はささやくような低い声でそう言うと、持っていた荷物をひろげ、中からピストルにそっくりな、ちょっと変わった道具を取り出しました。
「博士、それはなんですか? なんだか変わった形のピストルみたいに見えますが……」
新田先生は言いました。
博士が荷物の中から取り出したのは、どう見てもピストルそのものでした。
ただ、ピストルの胴の部分がものすごくふくらんでいて、細かいヒダがついており、手で握るとこぶしがすっかり隠れてしまうような形をしていました。
「これかね。一丁おまえにわたしておこう。これは十号ガスを発射する『ガスピストル』だ。あまり遠くへはとばないぞ。まあ、百メートルとどけばいいほうだな」
「百メートルですか! 百メートルとどけば十分に役に立ちますよ!」
新田先生はうれしそうな顔をして、博士からもらったガスピストルをがっちり握りしめ、しきりに胸のほうへ持ってきたりしながら、一発早く撃ってみたくてたまらない様子でした。
それを見て、博士は言いました。
「ダメダメ! こんなところでそのピストルを撃ってみたところで、こわれるものは何ひとつありはしない。それよりも、これからわしと二人で、火星兵団のやつらを追いかけて、実際に試してみようじゃないか。さあ、したくをしなさい」
「えっ、ためしに火星人を撃ってみるのですか?」
先生は、うれしいような、こわいような、不思議な気持ちになりました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました