初級翻訳・火星兵団 第28話

海野 十三

これはあまり大した事件ではないのですが、ご参考までに耳に入れておきまして……」「申し上げない方がいいのですが、後で万一、この事件と関係があったということになりますと、本当に申し訳ありませんので……」
交通課の主任は、なぜかすっかり自信がなさそうな様子で、大江山(おおえやま)課長の顔をじっと見つめました。
「なに、参考になることなら、どんなことでもどんどん報告したまえ。
自分の中にしまっておく必要なんてないじゃないか」
課長は、少しイライラした気持ちを抑えながら、この遠慮がちな主任に話を促しました。
「はっ、それではお話しいたしますが、実は、お昼ごろのことなんです。スピード違反の自動車が走っていたので、白バイで追いかけたのです。
すると、運転席に妙な顔をした運転手と、その隣に一人の少年が座っているのが見えました」
「ななんだ。
少年の助手なんて、このごろはいくらでもいるだろう」
「ところが、ここから少し変なことになったのです」
「あまりもったいぶらないで、どんどん先に進んだらどうだい」
「はっ、つまり、その自動車が、まるでウサギが逃げるような猛スピードで逃げ出したのです」
「逃げたとは変だな。
白バイは何をしていたんだ」
「いえ、自動車がものすごいスピードを出して逃げてしまったもので……」
「逃がしてしまうなんて、話にならないね」
「ところが、ちゃんと追いついたのであります」
「どうも君は、話の順序を知らないねえ」
「いえ、課長さんがもう少し黙っていてくだされば、話しやすいのですが、むやみにお急ぎになるものですから困ります」
「なんだと。
手のかかるやつだな。
よろしい、では、君が話し終えるまで、こっちは一言も喋らない。
だが、もっと要領よく、そしてもっと早く話してくれ。
今日はいつになく気が短いんだからね」
「はっ、それでは……」
こうして主任は、あのバイクでの追跡劇を詳しく語り始めました。
ついにその自動車が麻布(あざぶ)の崖の上から下へまっさかさまに落ちてしまったことや、運転手が、落っこちる自動車の中から上半身をぐっと乗り出して、こちらをぎろっとにらみつけたことなどを……。
交通主任はもともとおしゃべりが得意ではなく、話は一向にスピードに乗りませんでした。
しかも話が非常に細かいため、いつまで経っても終わりそうにありません。
しかし、さっきまで自分で「イライラしている」と怒鳴っていた大江山課長は、どうしたわけか、まるで別人のようにとても熱心にこの話に耳を傾けているのです。
「もっと早く喋れ」とも、「もっと要領よく喋れ」とも、どちらも一切言いませんでした。
「……とにかく、不思議なことなんです。
崖の下へ行って、焼け落ちた自動車の車体をひっくり返して調べてみたのですが、運転手の死体どころか、骨の一本すらそこには見当たらなかったのですからね」
交通主任は、そのときの光景を思い出したのか、ここでもう一度「不思議だなあ」という顔をして首をかしげました。
「で、少年の死体は?」
課長が、やっとここで一言だけ口を挟みました。
「本当に、不思議としか言いようがありません。
運転席に一緒に乗っていたはずのその少年の死体も、やっぱりどこにも見当たらないのです。
まったく、こんな不思議な事件は、生まれて初めてです」
交通主任は「不思議だ、不思議だ」と何度も繰り返しました。
「まさか、君たちが見間違えたんじゃないだろうね」
「見間違え? そ、そんなことは絶対にありません!」
交通主任は、この事件を報告してきた白バイの巡査を心から信用していたので、課長から「見間違えではないか」と言われると、懸命になって弁解しました。
それに、自分でも墜落現場に行ってみて、二人分の死骸を必死になって探し回ったのですから間違いありません。
「不思議だ……。
どんなに考えても、そんなことってありそうにない話だな」
課長は腹立たしいような顔をして、ぎゅっと握り合わせた両手で、机の上をトントンと叩きました。
「課長、この話ばかりは、とてもまじめに聞いていられませんよ。
まるで西洋の大魔術みたいなものですからねえ」
いつの間にか、佐々(ささ)刑事がみんなの前に出てきて、まわりの迷惑も考えず大きな声を張り上げました。
「不思議だ……」
課長はそれだけ呟くと、また机をトントンと叩き続けました。
「この大魔術には、いったいどんな名前をつけましょうかねえ。
そうだ、『秘法公開・空中消身大魔術!』なんてどうです?
なかなかいい名前でしょう!」
佐々刑事は一人で面白がって大喜びしています。
「不思議だ!」
課長はまたそう言うと、あごの先をキュッとつまみました。
「だが、この世の中に、タネも仕掛けもない大魔術なんてあるはずがない。
そうだ、この事件なんか、なんだか怪人丸木(まるき)くさいところがあるぞ!」
課長は、すっと椅子から立ち上がりました。
「怪人丸木ですって!?」
刑事たちはみんな、示し合わせたように声をそろえて「丸木」の名を叫びました。
「そうだ。
自動車を運転していたのが怪人丸木で、運転席に乗せられていた少年が千二(せんじ)だった――と、こう考えてみるのは、どうだ。それも魔術のうちに入るだろうか」
「えっ、千二少年に怪人丸木だって!?」
一同の驚きは、再び激しく爆発しました。
事件の謎は、またしても千二少年の行方のところへと戻ってきたのです。
「そうだ。
あいつ(丸木)なら、そのくらいの魔術くらい使いこなすだろう――」だが、使いたければ使うがいい。
魔術のタネなど、こちらで全部暴いてみせる。
絶対にその仕掛けを突き止めてやるぞ!」
大江山課長は、例の自動車の墜落事件を、怪人丸木が仕掛けた魔術だと断言した。
そして、その直感は間違いではなかった。
実際に怪人丸木が仕掛けた悪だくみにほかならなかったのだから。
はたして、課長はこの魔術をどのようにして解き明かすのだろうか。
課長はさっそく車を手配させた。
恐ろしい自動車事故が起きた崖の下は、警察官たちによって厳重に警備されていた。
真っ暗な夜の闇の中で、パチパチと炎が燃え盛っている。
まだあの事故の自動車が燃え続けているのかと思いきや、そうではなく、それは大きな焚き火だった。
周囲をしっかりと見張るためと、事故現場を明るく照らすためである。
その焚き火の炎が、すぐそばを流れる小川の水面に反射して、まるで二段に分かれて燃えているように見えた。
大江山課長は、何人もの部下を引き連れて、その焚き火の方へと歩み寄った。
現場を守っていた警官がようやくそれに気づき、課長の方へピシッと手を挙げて敬礼をした。
「ごくろう。
あの崖の上から落っこちたという自動車は、これかね?」
「はい、このロープで囲ってある場所がそうであります」
「ふむ、すっかりひどいことになっているな。
もとの形がどんなだったか、まったく分からないくらいだ」
「そうであります。
なんといっても崖の高さは七、八十メートルもありますから、あんな所から落っこちては、ひとたまりもありません。

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