「いや、船のことはわたしに任せておいてください。あなたはロンドンに入港したあとの歓迎の挨拶でも、今から考えておくといいでしょう」
クーパーは思いやり深い言葉を老船長にかけました。
「だが、わしは心配だよ。なるほど今、船はなんだかゴトンと音を立てて持ち上がったようだが、本当に元のあの大西洋に戻れるのかのう。君、ちょっと外を見てくれぬか」
「外を見てはいけないという約束なんです。……が、待っていてください」
とクーパーはそっと丸窓に近づき、外をうかがったのでした。そのとき、なんだか白い縞(しま)模様をもった霧のようなものが、ぐるぐると動いているように見えました。
あれは何だろうと、丸窓に顔を近づけようとしたその瞬間、窓の外からピタリと遮光板が閉じられました。
窓をふさいだのは、窓いっぱいに広がる、海底超人の怒りに満ちた顔でした。
なんという気味の悪い顔でしょう。
そのとき、ドアが外からどんどんと激しく叩かれました。
「こら、クーパー。見てはいけないという約束を、なぜ破ったのだ。メリー号の浮揚作業を中止してもいいのかね。もう一度同じことをしてみろ。そのときは容赦はしないぞ」
海底超人は烈火のごとく怒り、ドアをいつまでもどんどん叩き続けました。
さすがのクーパーも顔を青ざめ、一言も発することができず、まるで別人のようにしょげてしまいました。海底超人が怒ったとき、どれほど恐ろしいことになるかを知っていただけに、震えが止まらなかったのです。
「これ、クーパー。相手を怒らせるな」
そう聞きつけた老船長も、今はただ震え上がるばかりでした。せっかくの帰還が水の泡と消えてしまっては一大事です。こうなっては、相手の機嫌を最大限にもてなしておかねば危険でした。
船底に押し込められている乗客たちの中には、秘書のマルラや一等運転士のパイクソンも混ざっていました。彼らもメリー号の乗組員として、こんな事件に巻き込まれた以上、なんとかして外の様子を見たいと思っていました。しかし、あいにく室内には海底超人の見張り番が、油断なく目を光らせて、押し込められた船員たちの顔を睨みつけているため、どうすることもできませんでした。
**浮き上がり作業**
私たちには想像もつかないような大作業が、いま、海底で行われています。クイーン・メリー号の浮揚作業です。
鉄水母(てつくらげ)に乗っているロロー殿下は、長良川博士をはじめとする三人の人間に、特別にこのすばらしい作業を見ることを許しました。三人は代わる代わる鉄水母の外が見える水中望遠鏡に張り付き、驚くべき海底超人の知能と能力に舌を巻きました。
水中望遠鏡は、潜水艦の潜望鏡のように天井からぶら下がっている円筒状のもので、下のハンドルを回すと上下左右、どの方向でも自由に水中を見物できる仕組みでした。
「おお、見える、見える。あれがメリー号だ」
博士が驚きの声を上げました。真っ暗な大深海の底に、メリー号の巨体が静かに横たわっています。どこからか数条の真っ白い光線が船腹に当たっていました。船体はかなりひどく錆びついており、かつての美しいクイーン・メリー号の姿はどこにも見当たりません。
よく見ていると、その巨体は静かに浮かび上がっていきます。しかし、メリー号は水浸しになっているのかと思って見直すと、そうではないようです。マストにつけた旗などの形からして、別に水に濡れている様子はありません。
「うむ、一体どういうことになっているのかしら」
博士がさらに瞳を凝らして見ていると、奇妙なものを発見しました。巨体の周囲に、楕円形の輪郭が見えるのです。これが巨体と一緒に静々と持ち上がっていきます。まるでメリー号を楕円形の額縁に入れたように見えた、と言えばわかるでしょうか。
やがて、それが額縁ではなく、巨船が透明な物体の中に収まっていることがわかりました。つまり、卵の殻をセルロイドで作り、その中の黄身をクイーン・メリー号だと思えばよいのです。この外殻こそが、まさに驚異的でした。それは人間世界ではまだ発見されていない、特殊な粘着材料でできているようでした。
そうこうするうちに、巨船はだんだんと浮き上がり、やがてぽっかりと海面へと出ました。まるで卵が水の上に浮かんでいるような格好です。しかし、巨船はまだ死んだように静まり返っていました。
そのとき、楕円形の下から静かに海水が流れ込みました。錆びついた巨船の底の方から、海水が次第に上へと昇っていきます。やがてメリー号の船腹には、普通に海の上に浮かんでいるときと同じ高さまで海水が満ちました。
外は真っ暗な夜です。海上は波立っていました。その瞬間、楕円形がパッと宙に飛び散りました。メリー号を包んでいた外殻が外れたのです。巨船は三カ月ぶりで、ようやく大気に触れることができました。
**再生の夜**
そよ風が吹く静かな海上でした。いま、巨船クイーン・メリー号は久しぶりに、懐かしい海の上にぽっかりと浮かんでいます。船体のペンキは見る影もないほど汚く剥げていましたが、幸いにも夜のことなので、闇の中に紛れて目立ちませんでした。
多数の船員や乗客たちは、海底超人のために船室や船底に押し込められていましたが、本船が海上に浮かんだことを肌で感じ取っていました。なぜなら、彼らは波のうねりに船体がグーッと揺れるのを感じたからです。海底超人たちは、もう用事は済んだとばかりに、群れをなしてぞろぞろと甲板の上へ這い上がってきました。
不気味なほど大きな丸い頭は、まるでゴム風船を寄せ集めたかのように見え、彼らは障子の破れ目を風が吹き抜けるときのような奇妙な声を上げて、しきりになにやらささやき合っていました。
それはおそらく、「浮揚作業も終わって、まあよかったねえ」といったような話だったのでしょう。
やがて海底超人たちは、名残惜しそうに甲板を見回したり、これから飛び込もうとする暗い海面を眺めたりしていました。
事務長のクーパーは、まさにその機会を狙っていたのです。
彼は素早く一等運転士のパイクソンに、ある密令を伝えました。
ちょうどその頃、パイクソンは船底に近い場所に閉じ込められていましたが、クーパーからの電話を受けると、海底超人の隙をうかがって船底の無線室へと忍び寄りました。
幸い、そこに見張りとして立っていた海底超人の姿はなく、「しめた!」とばかりに、すぐさま無線室へと飛び込みました。
無線室の中には誰もいませんでした。
無線技師がどこへ行ったのかは、まったく不明でした。
そもそもこの船底の無線室というのは、遭難時に最後に使うための場所なので、機械も簡素で粗末なものでした。
パイクソンは、硬い決意を眉間に刻みながら、無線機の前に近づきました。
そして、まず電源スイッチをグッと入れると、なんと電気がしっかりと通っているではありませんか。
彼は思わず「しめた……!」と叫びました。
パイクソンは無線機について、ある程度の知識を持っていました。
彼はそこに自動救護信号送信機があるのに目をつけ、素早くその赤いボタンを押しました。
機械は「待っていました」とばかりに、ゴトゴトと回り始めました。
コメント