初級翻訳・今昔ばなし抱合兵団 第1話

今昔ばなし抱合兵団

1

 なにはともあれ、あの有名な金(きん)博士の存在は、現代における最大の奇跡なんだ。
博士にお願いすれば、どんなに難しそうに見える科学や技術だって、解決できないものなんて一つもない。
「雲を呼んでくれ」と博士にお願いすると、博士はそこに並んでいる小瓶のフタを片っぱしから開けていく。
開けた途端、小瓶の中から、もうもうと立ちこめる怪しげな白い霧、赤い霧、青い霧、そのほか色とりどりの霧が、竜巻のようにわき上がってくる。それがゆらゆらと揺れているのを面白がっているうちに、いつの間にか部屋じゅうが一面の「霧の海」になってしまって、そのうち博士がどこにいるのか、実験台がどこにあるのか、はたまた自分の財布(さいふ)がどこにあるのか、まったく分からなくなってしまうんだ。
結局のところ、金博士の知恵をためそうなんて調子に乗ったやつの財布の中身は、きれいすっかりからっぽになって、思いがけなく大敗北に終わるのがいつものお決まりだった。
「おいおい、ちょっと静かになったと思ったら、ひどいことを書いてくれるじゃないか。
わしはガスを研究しているんだから、赤い霧や青い霧の話はいいとして、財布がどうこうなんてくだりは、なんだか人聞きが悪いな。
わしの人格にかかわるぞ」
いつの間にか、ぼくの背後から金博士が、原稿用紙をのぞきこんでいたなんて、ぼくはちっとも知らなかったんだ。
そこでぼくは、ペンを休めないで、こう言い返した。
「金博士、ぼくがあれほど『教えてください』とお願いしていることに、博士が答えてくれない限り、ぼくは博士のありもしないことや、あることないことを書きなぐって、パン代にかえながら、いつまでもこの上海(シャンハイ)でがんばり続ける覚悟ですからね!」
そう言いながら、ぼくは目の前の机にかじりつくフリをしてみせた。
すると博士は、人並みはずれて大きな頭を左右にぶんぶんと振りながら、
「まったく、困った男だなあ。
まるで蒋介石(しょうかいせき)みたいに、まわりからの同情を強引に引き出そうとするんだから。
しかしいつまでもわしの部屋居座られても困るが、いったいキミが教わりたいという話は、何だったかね?」
「あれぇ? 金博士はもうそれを忘れちゃったんですか?
そんなことじゃ困りますねぇ」
と、ぼくは大げさに呆れてみせて、お人好しな博士の急所にズバッと一突きした。
「ああ、それはすまなかったな。
一体なんの話だったかな……あ、そうか! 殺人光線のエネルギー半減距離のことだったかね?」
「いえ、違いますよ!
博士、ぼくが教えてほしいと言ったのは、そんな難しい数学の話なんかじゃありません。
つまり、『文化的な生活を送っているぼくら人間は、はるかな未来には、いったいどんな暮らし方をしているのだろうか?』その答えを教えてほしいって言ったんです!」
「なんだって? もう一度言ってくれ。
何の呪文だか、さっぱりわしには通じないぞ」
「何度でも言いますよ! つまり、『文化的な生活を送っているぼくら人間は、はるかな未来には、いったいどんな暮らし方をしているのだろうか?』どうです、今度は分かりましたか?」
「何度聞いたって、分かりそうにないねぇ。
要するに、人類はこれからどんな風な暮らしをするのかってことなんだろう?」
「そうですとも!
まあ、かんたんにざっくり言うと、そういうことですね」
「そうか、そんな質問なら、答えはわけないことだ。
ピポスコラ族とまったく同じようになるさ。
そして一万年か二万年もたてば、われわれ人類には『ネオピポスコラ族』っていう名前がつくだろうよ」
「はぁ~、その『ピポスコラ族』っていうのは何ですか?
いったいどこにいる民族なんですか?」
「それはな、今ここでわしが言ったところで、お前は絶対に信じないだろうから、言うのはよしておこう」
「博士、それは卑怯(ひきょう)というものじゃありませんか!
今まで民族学や人類学はさんざん勉強してきたけれど、『ピポスコラ族』なんて名前は聞いたことがありません。
博士、適当なうそをついているんでしょう?」
「ばかなことを言っちゃいかん!
もっとも、薄っぺらい安物の本なんかには載っていないだろうがね、わしはうそを言っているわけじゃないんだ」
「じゃあ説明してくださいよ!
あるいは、ぼくをその『ピポスコラ族』の目の前に連れて行ってくれてもかまいませんよ」
「あはははは! うわはははは!」
博士はなぜか大声を出して、からからと笑いだすと、しばらくの間その笑いが止まらなかった。
やがてようやく笑いを止めると、今度は笑いあきたのか、急にまるで苦い薬でもなめたような難しい顔になって、こう言ったんだ。
「よし、こうしよう。
来る八月八日を第一回目として、それから十年ごとの八月八日に、お前はその日の日記を書いて、わしのところへ送りなさい」
「十年ごとって、間隔がちょっと長すぎやしませんか?」
「そうでもないさ。
そうしてお前が、八回目の手紙を書くようになったときには、お前はもういや応なしに、『ピポスコラ族』に出会った話を書かざるを得なくなるはずだ。
それまでわしは、『ピポスコラ族』のことも、そしてそれと同じ暮らし方をするようになる人類のことも、一切しゃべらないことにするよ」
「まるで、おとぎ話に出てくる人間の姿をした神様みたいなセリフですねぇ!」「そんなまどろこしいことをいわないで、早く教えてください、一体われわれが遠き未来において、どんな生活をするかを……」
「云わないといったが最後、この金博士は絶対に云わないのじゃ。
この上ぐずぐず云うと、この部屋に赤い霧、青い霧をまきちらすぞ」
「いや、それはお許しねがいたい」
 私は、がまぐちを片手でおさえると、うさぎのようにぴょんと、博士の研究室を逃げだしたのであった。
――以上が、金博士に送った第一回の日記、つまりその年の八月八日の私の日記だったのである。
2

 第二回目の日記は、それから十年たった十×年八月八日における私の日記であった。
これは第一回分のものとは違って、ずいぶん本格的な日記らしくなってきた。
以下、これをそのまま載せておく。
十×年八月八日 晴れ

 おしっこに起きたついでに、窓から明け方の空をのぞいてみると、憎らしいほどよく晴れわたった天気である。
これでは今日も、日本空軍のはげしい爆撃があるだろうと思ってゆううつになったとたん、ぷーっという空襲警報のサイレンが鳴り響いた。
「うわーっ、やな予感が当たりやがる」
 私は、ぺっとつばをはくと、布団へとって返した。
ベッドの上の服と、そのわきにつるしておいた非常用の袋をつかむと同時に、部屋をとびだして、道路をかけだした。
めあての市民防空壕は、五百ヤード(約四百五十メートル)先である。
息を切らして防空壕にたどりついたはいいが、ふと手を首のところへやってみると、いちばんたいせつな入壕証(にゅうごうしょう)がない。
しまった。
ひもをつけて首にかけていたが、途中で切れてしまったらしい。
といって引き返してあわてて探していようものなら、足の早い日本空軍の爆撃機は、私の知らないうちに頭上に現れるだろう。
私は泣きっ面にハチの状態だった。
「入れてくださいよ。

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