初級翻訳・海底大陸 第30話

海底大陸

博士は、ロロー殿下がそうした儀礼を好まれないと説明して、懸命に断りましたが、学者たちはなかなか言うことを聞きません。
それほど彼らは、長良川博士の新学説に刺激され、大興奮の状態にあったのです。
博士は、例の大学構内の地下室に設けられた宿舎へ帰ってきました。
そして、まっさきに一人でロロー殿下の前へと進み出ました。
「おお、長良川博士。
あなたの帰りを待っていましたよ。
実は、私は急いで故国へ帰りたいのです」
ドリー助教授の心配そうな顔が、殿下の肩越しに見えました。
彼はどうやら、殿下の帰国申し出に対して、博士に代わって一生懸命になだめたものの、ついに力及ばなかったと、その顔色で知らせているようでした。
長良川博士は、大きくうなずきながら言いました。
「ごもっともです。
私としても、殿下のご希望に早く添いたいと思っています。
しかし殿下、今はまだ少し時期が早すぎると思います。
もし無理をしてお帰りになれば、きっと英国の人々は殿下に失礼な態度をとるでしょうから、心配でたまりません。
それに第一、乗り物を用意するにしても、この場所では、すぐにというわけにはいきませんから」
すると、ロロー殿下はこう言いました。
「乗り物のことなら、心配はありません」
「えっ、なぜですか。
何か乗り物についてお考えがあるのですか」
「ええ、それは大丈夫です。
私の『鉄水母(てつくらげ)』は、いつでも身近に用意してありますから」
「えっ、鉄水母ですって?」
鉄水母という言葉を聞いて、三千夫少年たちもそばへ寄ってきました。
「そうです。
では、ご覧に入れましょうか」
ロロー殿下は静かにそう言うと、何やら呪文のようなものを唱えはじめました。
すると長良川博士たちは、まるで電気にでもかかったような、奇妙な感覚に襲われました。
(これはおかしい!)
そう思っているうちに、部屋の床に敷き詰められていたレンガが、一メートル四方ほどグラグラと揺れはじめました。やがてそのレンガの部分がモコモコと盛り上がると、中から思いがけないほど頑丈な鉄のふたが、ゆっくりと姿を現したのです。
「あっ、これは!」
「おお、これは見覚えがある。
あの鉄水母の司令塔のふただが、どうしてこれが地底から……」
博士たちが驚いていると、ロロー殿下は特に驚いた様子もなく言いました。
「なあに、鉄水母は、私が呼べばどこへでもやって来るのですよ」
そのとき、地下室の入口で待ちかねていた生物学者団が、しびれを切らしてドアを突き破り、ドッと階段を駆け下りてきました。

興奮の嵐

「なにごとです。
その騒がしさは――」
長良川博士は、地下室の階段から飛び込んできた生物学会の会員たちを振り返り、厳しく叱りつけました。
「いや、長良川博士」
ひとりの会員が一同を代表して答えました。
「私たちは今、決議したところだ。
海底超人の研究ほど、今日必要に迫られているものはない。
そこで一同の賛成により、そこにいる海底超人のロロー殿下とやらをもらい受けに来たのだ。
すぐ我々に引き渡してくれたまえ。
その代わり、我々は貴殿に最大の名誉を与えよう。
その名誉というのは……」
「いや。
待ってください。
ロロー殿下を渡せなどとは、とんでもない話です。
考えてもわかるではありませんか。
ロロー殿下は、実験用の動物ではありません。
人格と自由とを持った、立派な人間なのですぞ」
長良川博士は、最大の名誉といった餌に釣られることなく、押し寄せた会員たちの暴挙を強くたしなめました。
「だがねえ、長良川博士。
クイーン・メリー号の事件内容といい、博士の先ほどのお話といい、我々は一刻も早く海底超人を研究しておかないと、今に逆転して我々が追い詰められるに決まっている。
人類を救うためには、ひとりのロロー殿下を解剖することぐらい、何の罪にもならない。
いや、逆に全人類から感謝されるはずだ」
「いいえ、どんな理由があってもダメです。
第一、この私がそれを承知しません」
「君はしきりに我ら学究の行動を邪魔しようとしている。
我々は、君に指図される覚えはないのだ。
そこを退きたまえ」
先頭に立つ代表会員の言葉に、会員たちは一層興奮し、今や、ロロー殿下の前方に立ちふさがる長良川博士を押しのけてでも、ロロー殿下を捕らえたいという気持ちでいっぱいでした。
ロロー殿下は、まるで石像のようにじっと博士の後ろに立っていました。
そしてこの場のありさまを見て、殿下はいよいよこの地を離れたいと強く思うようになったのでした。そのとき、生物学者たちはついに長良川博士を押し退けて階段をどっと駆け下り、ロロー殿下をぐるりと取り囲んでしまいました。
一大事と、ドリー助教授や三千夫少年も飛び出しましたが、興奮しきっている人々にはねのけられてしまいました。

爆発点

「皆さんは、私をどうしようというのですか」
ロロー殿下は、穏やかに一同へ向かって抗議されました。
「もちろんだろう。君は我々にとって貴重な研究材料なのだ。さあ、我々といっしょに来てもらうぞ」
「いやだ」
殿下はその手を振り払いました。
「いやとは何だ。君、あまり強がっていると損をするぞ。我々の目から見れば、君など動物園の檻に飼われている類人猿と大差がないのだ」
「ぐずぐずしていると、市民たちが押し寄せてくるぞ。彼らはクイーン・メリー号の船員や乗客たちの恨みを晴らしたいと、いきり立っているのだ。そんな乱暴な市民たちに踏みにじられたくなければ、ここで我々の言うことを聞くのが賢明だぞ」
学者たちは、口々に激しい言葉をロロー殿下に投げかけました。彼らは、二度と手に入らないこの素晴らしい研究材料を目の前にして、是が非でも手に入れなければ気が済まないという決心でした。
ロロー殿下は、じっと直立していました。しかし、その大きな球形の頭はかすかに震えていました。殿下の心の内には、次第に怒りがこみ上げてきたのです。
「地上人類たちよ。卿らは、そこまでして私を侮辱したいのか」
「ああ、待ってください、ロロー殿下」
と、学者たちの後ろから長良川博士の声が聞こえました。
「おお、長良川博士。私の忍耐力は、もうすでに役に立たなくなりました。もう、おしまいです。いや、たとえ私がこの場を我慢したとしても、わが海底超人一族は、もはや我慢をしないでしょう。それもまた、やむを得ぬことです」
「いや、ロロー殿下。もう少し辛抱してください。私はきっと……」
「ああ、長良川博士。せっかくですが、もう遅いのです。今、私の耳にははっきりと、海底超人の怒りの声が聞こえてきました。博士には、あの騒ぎが聞こえませんか。あの地響きが聞こえませぬか」
そう言っているうちに、ロロー殿下を取り囲んでいた学者たちの耳にも、「ゴーッ」という気味の悪い地響きと、怪しげな鬨(とき)の声とが混ざり合って聞こえてきました。
「ああ、なんだろう、あれは――」
と思っているうちに、古いレンガ造りの壁がミシミシと鳴り出しました。
「ああ、地震だ!」
ついで、学者たちが立っている足元が、船のように揺れだしました。
さあ、大変です。学者たちは先ほどまでの威勢もどこへやら、その場にへたり込む者もいれば、階段を駆け上がる者もいました。

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