初級翻訳・海底都市 第15話

海底都市

しかし、もし学友の辻ヶ谷君の力によって二十年前の焼け跡へ戻されてしまったら、僕が楽しみにしている時間旅行がここで台無しになってしまいます。
――お願いだ、辻ヶ谷君。僕のことは忘れて、僕が満足するまでこの二十年後の海底都市で生活させてくれ。このことを君に直接伝えることができないので、実は僕はいつもびくびくしているんだよ。

標本としての仕事は一時間で終わりました。
すると僕は元の、髭のはね上がった大人の姿へ戻り、服も元通りになりました。
僕はようやく安心しました。
博士は僕を透明な椀の外へ出してくれました。
「本間君、どうだったかな。標本としての仕事も、案外楽なものだろう?」
博士は、今までになく機嫌のいい様子で、僕に話しかけてきました。「いやいや、もうへとへとですよ」
「それはあとで食事をすれば、すぐに元通りになるから心配いらない」
「そうですかね……それに、あの学生さんたちが無遠慮に僕の体をいじり回すので、本当に閉口しましたよ」
「おいおい、慣れてしまえば大した苦痛じゃなくなるさ。なにしろ学生たちは君に対して異常な興味を持っているんだ。だから君は今後、ますます大切に扱われることになるだろう」
「そんなに彼らは興味を持っているのでしょうかね」
 そのことが災難の火種になるとも知らず、僕はむしろ得意げになって聞き返しました。

五頭パイプ

 カビ博士の顔の下半分は、黒い毛に埋もれています。その毛むくじゃらの草原の真ん中がぽっかりと開くと、髭越しに赤いものが見えます。それは博士の口の中の色です。この赤い巾着(きんちゃく)のような口は、広がったりすぼまったりしてよく動きます。そして髭の中から、博士のガラガラ声が飛び出してくるのです。
 博士は僕との対談中、安全剃刀(かみそり)の柄をくわえたのかと思いましたが、そこから煙が出てくるのを見て、どうやら剃刀ではなく煙草のパイプの類だと分かりました。普通のパイプは、煙草を詰める火皿(ひざら)、つまり雁首(がんくび)が一つです。ところがカビ博士が口にくわえるパイプには、五つの雁首が並んでいるのでした。
 しかも、そのすべてに火をつけているわけでもないのに、雁首から煙がゆらゆらと上がります。その煙の上がり方が愉快です。五本の雁首から一斉に五本の煙が上がって、煙突だらけの工場そっくりになるかと思えば、次の瞬間には雁首の一つだけから煙がゆらゆらと立ち上ります。そうかと思うと、今度は三本から立ち上るのです。それを見ていると、まるで煙の音楽会、あるいは煙の舞踏会とでもいうべきか、確かに一定のリズムに乗って煙が吹き出してくるのでした。もちろん、その合間合間には、博士の髭だらけの口元からも、別にもうもうと煙が吹き出てきます。

「先生は、煙草がお好きなようですね」
 僕は素直に感想を述べました。
「うん。わしは連日、脳細胞を使いすぎているから、どうしてもこれをやらないと早く疲労が取れないのじゃ」
「ずいぶん変わった形のパイプですね。そんなパイプが海底都市では流行(はや)っているのですか」
「流行っているというわけではない。これはわしが考案したものでな、ほかにはない特殊なものじゃ」
「煙の出るところが五つもありますね」
「そうだ。五種類の薬品を詰め込んであるのだ。それを適当に蒸発させて、ある特殊なリズムで脳神経に刺激を与える。このリズムを決定するのが難しいのじゃ」
「なるほど。僕もそのリズムの利用には気がついていましたよ。面白い療法ですね。どんな味がするか、僕にもちょっと吸わせてください」
「いや、いけない!」
 博士は目をくるくるさせて、パイプをポケットに隠しました。
「君なんかが吸うと、とんでもないことになる。絶対にいけない」
 博士の狼狽(ろうばい)ぶりを、僕は意外に感じました。
「君に警告しておくが、君は実在の人間ではなく、イマジナリー(空想)の人間なんだ。それを忘れてはならんよ。つまり、何でもわれわれと同じようにはできないということを、よく頭に入れておいてもらいたい」

 イマジナリーの人間! それはそうです。僕は二十年後の世界へ先走りをして生活をしているのですから。

「君は何も知らないだろうが、君が実在する世の中からその後の二十年が経つ間に、文明はあらゆる方面において驚異的な発展進歩を遂げた。人体改良にも非常な努力が払われ、改造進化が行われ、今日の高等人間を生むに至ったものなのだ」
「高等人間ですって? 人体改造ですって?」
「人体の進化を自然にのみ任せていたのは昔のことさ。なんと知恵のない話じゃないか。だからこそ昔の人間は、やたらに病気にかかって悩み、衰弱し、寿命を縮めた。そればかりか、人智(じんち)のレベルは一向に向上しなかった。なぜ昔の人間は、そこに気がつかなかったんだろう。人為的に人体改造進化を行うことによって病気と絶縁する。それから人智を高度に引き上げる。こんな思いつきは、赤ん坊にでもできることじゃないか。もちろん、今の赤ん坊のことだがね。とにかく昔の人間は実に哀れなものだった。眼前の現実のみに注意力や情熱を集中して、遥かなる未来世界について夢を見ることを知らず、従ってその夢から素晴らしい現実の発展が起こることにも考えが及ばなかった。ああ、哀れなりし人類よ……」

 カビ博士は、日頃のぶっきらぼうな話し方とは打って変わって、雄弁に持論を展開していました。しかし僕は白状しますが、博士の熱弁を聞くのは、もうそのくらいで十分だと思いました。

「先生。すると、そういう意味において、自然進化に任せてきた僕の体は、この海底都市の研究家たちにとって絶好の標本だというわけですね」
「そうだ」「全く、貴重な標本だと言わなければならんな」
「じゃあ、僕は大いばりで、ここに滞在することが許されるのですね。いや、国賓待遇を受けてもいいじゃないですか」
 僕は朗らかな気持ちになって叫んだ。

暗い問題とは

「君を国賓待遇にするなんて、とんでもないことだ。政府に見つかれば、もちろん君は海底冷蔵庫の壁になるしかないんだ」
 カビ博士は僕の言葉をひっくり返して、いつか僕が聞かされたのと同じ警告を浴びせかける。
「だって僕は、貴重な標本なんでしょう」
「そうさ。君は網の目をくぐり抜けてきた、いわゆる闇の物品だから値が高いんだ。しかし、どう釈明しても君は合法的存在じゃない」
 ああ、闇というやつにはずいぶん悩まされてきた僕であるが、この海底都市へ来てまで闇扱いされるとは、なんという情けないことだろう。
「学問のための貴重な標本なりということを、政府の役人どもは了解しないのですか」
「そこなんだ。実に困った対立、いや、暗い問題があるんだよ、この海底都市にはね」
「へえッ、こんな理想郷にも暗い問題なんかがあるんですかね。それは一体どんな問題なんですか」
 僕は非常に意外に感じたので、強く問い詰めた。
 博士はすぐには返事をせず、例の五頭のパイプを髭の野原の中に押し込んで、やけに煙をふかしていたが、やがてやっとパイプを口から取って、つぶやくように低い言葉を吐き出した。
「それは言えない。わしの口からは言えない。

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