初級翻訳・火星兵団 第55話

海野 十三

奇妙なことに、今さっきまで動いていた二つのボタンはあとかたもなく消え失せ、火星人の胸は前と同じように、ドラム缶のように固い表面があるだけになっていたのです。

この時、火星人はすばやく跳び起きました。
気味の悪い火星人と組みうちをしたことで、新田先生はさまざまな不思議な体験をしました。
火星人の首が今にも落ちそうになっていたことや、火星人の声が肩のあたりから聞こえたこと、そして火星人の胸に目玉のように動く大きなボタンがチラと見えたかと思うとすぐに消えてしまったことなど、どれ一つとして不思議ではないものはありませんでした。
火星人の体には、さまざまな秘密があるようです。
少なくとも、地球の人類が持っている体とは、その作り方がまったく違うらしかったのです。

新田先生は、この時以来、どうにかして火星人の体の秘密を一日も早く完全に突き止めたいと考えるようになりました。
火星人の体の秘密がはっきりと分からなければ、こうして火星人と付き合っていても、なんだか安心して落ち着くことができない気がしたのです。

先生の組みうちの相手だったその火星人はすっくと立ち上がりましたが、そこで引き下がるのかと思いきや、そうではなく、またジリジリと先生に向かって近づいてきました。
先生はすでにかなり疲れていましたが、ここで弱みを見せては敵になめられてしまうと思い、
「まだ来るか、来るなら来い!」
と、両手を大きく広げました。

すると、さっきから二人の組みうちを傍らからじっと見ていた丸木が、急に二人の間に割って入り、なんだかわけのわからない言葉をペラペラとしゃべり立てました。
それはどうやら、暴れる火星人を厳しく叱りつけたもののようでした。
先生の敵は、すごすごと後ろを向き、仲間のうしろへと隠れてしまいました。

「新田先生」
今度は丸木が、先生に話しかけてきました。
「これ以上、火星人を怒らせないほうが、身のためですよ。
さっきの話は、どうぞ承知してください」
怪人丸木が新田先生に押し付けようとしているのは、山梨県一帯の山中を、火星人にゆずりわたせということでした。
「そんなことを言われても、私には決める力がないんだ。
それは、政府へ申し込んでくれ」私は、そんなことには何の力もない、一人の教師なんだから……」
「ふふふふ、こまった人間だ」
 と、丸木は、うす笑いをしながら、
「わしの目から見れば、先生であろうが、政府の役人であろうが、どっちも地球の人間と見ることにかわりはない。
わしは、これ以上くどくど言うことはやめます。
要するに、わしたちの相手は、人間でありさえすれば、誰でもいいのだ。
人間どうしの相談なら、先生だとか、役人だとか、そんなうるさい資格が必要かもしれないが、火星人対地球人の相談には、人間が勝手にきめた地位や資格のことを考える必要はないのだ」
 と、丸木は少しむずかしいことを言ったのち、
「ねえ、先生。
ぐずぐずしていると、あなたがたの足の下にふみつけている地球が、煙のようになって、ふきとんでしまうのですよ。
わしたちは火星人だから、そんなことになっても、一向こまりはしない。
こまるのは、あなたがた地球の人間たちばかりだ。
そうでしょうが」
 先生は、だまっていたが、もちろん、丸木の言うとおりにちがいなかった。
「だから、先生。
あなたは、地球の人間を代表して、わしに返事をしてくれればいいのです。
先生がうんと言って承知をしてくれれば、わしたちは出来るだけの力を出して、先生をはじめ地球の人間をすくうつもりです。
人間だけではない、牛や馬や犬や猫や、それから桜の木や、松の木や、かつおや、ひらめのような魚や、それから、鶴や蛇や、地球上のありとあらゆるものを、一通りすくい出して、火星につれていってあげる」
「えっ、人間ばかりでなく、たくさんの動物や植物までも、のせて行くのですか」
 新田先生は、火星人丸木の言葉を、おどろいて聞きかえした。
「そうですとも」
「なぜ、そんなことをするのですか。
一人でも、多くの人間をのせて行ってもらいたいと思うのに、牛馬や木などに、場所を取られては、惜しいです」
「いや、わしたちは、こう考えているのです。
人間だけを火星に持って行ったのでは、向こうで、人間がくらしに困るかと思う。
だから、あらゆる植物や動物を、持って行ってあげようと言うのです」
「なるほど。
そういうわけですか」
 新田先生も、丸木の言葉が、ようやくわかったような気がした。
「では、そのへんで、わしたちの申出を、承知してくれますね」
「いやいや、丸木さん」
 と、先生はあわてて、丸木をさえぎり、
「その話は、いくら私に相談をかけられてもだめです。
政府に話をして下さい」
 すると丸木は、ぶるぶると体をふるわせ、
「どうも君は話のわからない人間だ。
もうよろしい。
わしたちはこんなことで、ぐずぐずしておられないのだ。
兵団長は、もうこれで十五へんも、話はきまったかと聞いて来られた。
この上、ぐずぐずしていると、わが火星の大計画はくずれてしまって、とりかえしのつかんことになる。
……」
 と、丸木は妙なことを口走って、しきりに足ぶみをした。
新田先生は、丸木の言った言葉の中から「兵団長」だの「わが火星の大計画」だの「とりかえしがつかん」だのと言う謎のような言葉を、頭の中でおさらいをしてみて、不審顔であった。
32 はいって来た者

 新田先生が、火星人の申出を、うんと言ってきかないので、丸木は、とうとうおこってしまった。
丸木は、うしろをふりかえって、奇妙な声をあげて、両手を、頭のうえで振った。
それが、合図であったらしい。
うしろに集って、丸木と新田先生との話を、熱心に聞いていた火星人たちは、一時に立って先生に向かって来た。
「な、なにをするっ」
 先生は、近よる火星人たちを、しかりつけた。
しかし、相手は大ぜいであり、こっちは一人である。
もうどうすることも出来なかった。
あっという間に、先生は、両手両足を、火星人たちに取られて、真暗な奥の方へ、引きずりこまれてしまった。
そうして、やがてどさりと柔かい土の上に、なげだされた。
「あっ、いたっ!」
 先生は、腰骨のところを、したたかに打って、痛さのあまり、しばらくは、呼吸が出来ないほどだった。
先生は、ぐったりとして、地上にへたばったまま身動きさえしなくなった。
それから、どのくらいたったか、わからない。
そのうちに、先生は、ふと、眠りから、目ざめた。
冷たい、ひやりとした土が、先生に、
(さあ、しっかりして下さい、先生)
 と、励ますように、思われた。
このしっとりとした土さえ、やがて間もなく、数十億年もすみなれた故郷を、奪われてしまうのだ。
先生は、なんだか、涙もろくなってしまった。
先生は、起上った。
逃げることが出来たら、逃げだそうと思って、手さぐりで、はいだしていった。
しばらくはっていくと、ぼうっと薄桃色の光が見えた。
(しめた、あれが出口だろう)
 と、はいだしていったが……。穴の入口の、うすもも色の光りもの!
 監禁のうき目にあっている先生は、ここを逃出したい一心で、これに近づいた。
すると、その光りものは火星人だということがわかった。

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