初級翻訳・海豹と雲 第7話

北原 白秋

おぼろげだ、思い返せば、それは
眉に立つ陽炎(かげろう)のようだ。
子どもたちはみんな鵲を追いかけ、
鵲と一緒に影を見失ってしまう。

子の鵲

飛ぶ
一羽、
子どもの鵲。
蓮の田の
空を、いま。
脚をちぢめて
飛ぶものだから、

蓮の花が
白く見え、

露の音まで
白く見え、

ひたむきに、
まじろぎもせず。
まだ、幼い、
黒い鵲。
七夕の
この浅い夜。
三つ星が
光っている。

蕾

蓮の蕾の花びらは、
なかふくらむ紅い筋、

さざなみを立てる、月夜には、
おしべの香りも張りつめる。
鳰(にお)の卵の鳰の声、
生まれる前の息もしている。

田家の月夜

青鷺(あおさぎ)は
薤(らっきょう)を盗む。
月に矢を
子どもは番(つが)える。
賽の神。
田んぼの、田んぼの田螺(たにし)。
乙女は
影を知り始める。
(註 薤は傷に効く。月夜に青鷺が盗みに来て射られた話がある。)

猟季

月は梢を光らせる。
月は小さな角の月。
月は野の果てを煙らせる。
月に軽鴨(かるがも)が飛んでくる。
月に火銃の火は赤い。
月は風よりも冴えわたっている。

海豹(あざらし)と雲

汐首岬

たうたうと波騒ぐ汐首岬、
鮮やかだ、雑草の青、さみどり、
  ああ、本当に、いにしえのアイヌ・モシリ(アイヌの地)、
  語りかけよ、今この岬の岬たちよ。
味鳧(あじかも)が浮きなづむ海を越えてきて、
噴き上がる縦雲の頂を仰げば、
  夏よ、本当に、声がある、カムイ・ユカラ(神謡)、
  その声は風と満ち、照り響いている。
朗らかだ、すがすがしい葉の大広葉の
蕗(ふき)の葉の下の人、コロポックル、
  呼べよ、本当に、神はいる、オイナ・カムイ(古伝神)、
  そのままに立つ影の、ありのままの裸男。
ここを過ぎて、神のままに身は新しく、
ここを過ぎて、我が息吹は蘇るだろう。
人よ、本当に、ひたごころ直なる神よ、
  白雲の噴き上がる国を想え。
たうたうと波騒ぐ汐首岬、
鮮やかだ、雑草の青、さみどり。
ああ、本当に、いにしえのアイヌ・モシリ、
  語りかけよ、今この岬の岬たちよ。

曇り日のオホーツク海

光はない、燻(いぶ)し色の空には
日の在処が、ただ明るいだけ。
輝くことなく、頂だけが明るい、
オホーツク海の黒いさざなみ。
影はない、通風筒の
帆の綱が辺りに揺れるだけ。
眺めやり、ただ打ち見るだけ、
海豹が浮かぶ潮(しお)。
寒いのか、暑いのか、ただ、
霧と風が、過ぎては舞うだけ。
わたしは誰か、あるのかないのか、
酔おうとも、醒めようとも、まだ。
燻し色の空、輝かない波、
見はるかす円い涯(はて)だけがある。

樺太の山中にて

尾白鷲(おじろわし)が眼を放つ梢には
横雲の縹雲(はなだぐも)がほのかに明かりだした。
ああ、蒼い、黒椴(くろとど)のサルオガセ、
いつの日か花は咲くだろうか、香りも幽かだ。
校倉(あぜくら)よ、ロシア人が住み捨てた小さな小屋、
駅逓(えきてい)の旗にも朱色は褪せている。
霧は飛ぶ、霧は飛ぶ、山が高いので
夏だというのに気流だけが冷え冷えと増していく。
雲の上に棲む魚よ、湖の鱒(ます)、
縹渺(ひょうびょう)と空を見上げる人はどれくらいいるだろう。
凛として、また想う、カムイ・エカシ(神なる祖先)、
旅をすれば、わたしでさえも神の世界へ入っていくようだ。水芋のてらてら光る葉の
その前を、なにかが音を立てて通った。
   ぼうわう、ぼうわう。
おや、誰か、引き返してくるのかな。
美しい子どもよ、髪を結った子よ、
怖がることはないよ、怖がることはない。
ぼうわう、ぼうわう、
あれはただ吠えているだけだよ。
月がまた雲を呼んでいるんだ、
ぼうっとした紫色の夜に。
ぼうわう、ぼうわう、
小さな蛾さえもキラキラと輝いている。
さあ、みんなが思い出すんだ、こんな晩には、
美しい子どもよ、子どものころの記憶を。
ぼうわう、ぼうわう、
遠い昔の聖母の、まるい肩を。
におい立つようだったね、あのころの世界は。
不思議な布のように
光と空気で織り上げられていたんだ。
ぼうわう、ぼうわう、
あの夜の霧の中でも吠えていた、何かの声だよ。

昔の月

驚いたな、大きな月に。
潮が満ちて、満ちていた。
葦の葉が緑色に燃えている。
よしきりが「ぎょぎょし」と鳴いた。
植え終えて、わたしは噛みしめた。
穂の髄、露をまとった初めの毛を。
声がした。
舟が通り過ぎた。
水棹が「とぼん」と水面を打った。
ちょうど夏の、宵のひとときだった、
辛かった。
死ぬこともできなかった。
湧き上がる、湧き上がる霞が、
空中で光に変わった。
紫色のハサミを持った蟹も
生きていて、泡を吹いていた。

方丈

幻の月夜だ、
方丈の、灯火が描き出す現実。
空でありながら、満ち足りた世界だ、
塵のように数えきれない、香りと響き。
ありとあらゆる彩りの
紫に和らぎ、かすんでいる。
かぎりなく尊いものが
鮎のように揺れ遊んでいるよ。
きらりと光る顔、
わたしは誰だろう、この子どもは誰だろう。
ああ、母よ、わたしはここにいる、
ひょうひょうと空へ騰りながら。

鵲(かささぎ)

わたしは筑後の国に生まれた。

ふるさとの合歓の木かげを
流れていく水の音だ。
鵲の白い下羽根、
月の夜とともに移ろいゆく空の色。
おぼろげだ、思い返せば、それは
眉に立つ陽炎のようだ。
子どもたちはみんな鵲を追いかけ、
鵲と一緒に影を見失ってしまう。

子の鵲

飛ぶ
一羽、
子どもの鵲。
蓮の田の
空を、いま。
脚をちぢめて
飛ぶものだから、

蓮の花が
白く見え、

露の音まで
白く見え、

ひたむきに、
まじろぎもせず。
まだ、幼い、
黒い鵲。
七夕の
この浅い夜。
三つ星が
光っている。

蕾

蓮の蕾の花びらは、
なかふくらむ紅い筋、

さざなみを立てる、月夜には、
おしべの香りも張りつめる。
鳰(にお)の卵の鳰の声、
生まれる前の息もしている。

田家の月夜

青鷺は
らっきょうを盗む。
月に矢を
子どもは番(つが)える。
賽の神。
田んぼの、田んぼの田螺(たにし)。
乙女は
影を知り始める。

猟季

月は梢を光らせる。
月は小さな角の月。
月は野の果てを煙らせる。
月に軽鴨(かるがも)が飛んでくる。
月に火銃の火は赤い。
月は風よりも冴えわたっている。

海豹と雲

汐首岬

たうたうと波騒ぐ汐首岬、
鮮やかだ、雑草の青、さみどり、
  ああ、本当に、いにしえのアイヌ・モシリ(アイヌの地)、
  語りかけよ、今この岬の岬たちよ。
味鳧(あじかも)が浮きなづむ海を越えてきて、
噴き上がる縦雲の頂を仰げば、
  夏よ、本当に、声がある、カムイ・ユカラ(神謡)、
  その声は風と満ち、照り響いている。
朗らかだ、すがすがしい葉の大広葉の
蕗(ふき)の葉の下の人、コロポックル、
  呼べよ、本当に、神はいる、オイナ・カムイ(古伝神)、
  そのままに立つ影の、ありのままの裸男。
ここを過ぎて、神のままに身は新しく、
ここを過ぎて、我が息吹は蘇るだろう。
人よ、本当に、ひたごころ直なる神よ、
  白雲の噴き上がる国を想え。

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