初級翻訳・海豹と雲 第12話

北原 白秋

あの老いた胡桃(くるみ)の梢(こずえ)にあり、
美しく光る白樺の枝々にある。
枯れた山、枯れた野原、
あちこちに見える沢水。
まだ芯から深く温まるわけではないけれど、
何かを酔わせるものがある。
安らかで、いい落ち着きがあるのだ。
こうして一日を過ごす。
心地よい疲れと、
旅の気だるさと、
すべてを捨て去った、のんびりとした心。
――
そのうちに春もやってくるだろう。
いい空気だ。
いい光だ。
わたしは足をさすっている。
縁側で膝をたたいている。

早春の朝飯

こうして早春の空気を食べることは、
そのまま身体の栄養になる。
わたしは朝の光も食べる。
落葉松(からまつ)の新芽、
蛙の声、
若紫色の薄紫、
揺れている露、――
ひとつひとつを眺めて食べる。
菊子よ、いい朝ごはんだね。
新鮮な、いいおかずだ。
わたしは君の息まで食べる。
魂の、そのまた魂まで食べる。

落葉松林の中

柔らかい春先の落葉松の山。
少し霞んだ、木漏れ日の筋。
谷間の枯れ草。
鉱泉を温めている人が薪を割る音。
午後過ぎの煙突から上がる煙。
わたしは疲れて帰ってくる。
少し歩きすぎたかな、とも思う。
それでも雪の浅間山はよかった。
鷹が飛んでいるのもよかった。
柔らかい春先の落葉松の山。
その金粉のような靄(もや)。

ことりのひな

霧雨のかかる落葉松の、
萌えぎ色の芽を、つついているのか。
産毛の小鳥の声も細く、
見知らぬ春を見て鳴いている。

冬の日

胡桃の老木を眺めながら、
今日も胡桃を割っている。
胡桃の梢に広がる青空よ、
いつまでも、やさしくあっておくれ。

良夜

1
月の夜の、
よく枯れた白樺の木。

2
月の夜の翁草(おきなぐさ)に、そっと触れている。

かげ

落葉松に、
落葉松の影が映っている。
月の夜なのだろう。

樹

白樺の林の中に、
胡桃の木が一本、老いて立っている。
花の青さが美しい。

後記

 一音の言葉にも、広大な宇宙が広がっている。
その宇宙を、わたしは日夜見つめながら、人知れぬ驚きと感嘆に、わが身も震えている。
言葉の命とは、目に見えない微細な原子から発せられるものだ。それはまるで細菌の働きと同じで、わたしには恐ろしくさえ思える。
一つの言葉、一つの音の本質。それらがつながり、リズムとなって響き合うこと。常に繊細に味わい、溶かし、濾過し、鍛え上げ、創造していくことこそ、言葉を扱う者の唯一の使命ではないだろうか。
わたしは必死になって詩を練る。推敲を重ねて痩せていく。
しかし、選んだ道だから仕方がない。その推敲の苦しみこそが、何にも代えがたいわたしの最大の楽しみであり、わたし自身の風変わりなこだわりなのだ。
一音の中に宿る無数の原子の生命力とは何か。
この原子一つひとつに宿る命は、詩人の性質、思想、感情、感覚、そして心に溢れる情熱や感動の速度、調律のあり方によって、初めて多様な形に統合され、円満に開花するのだ。
詩人の精神は、その摂取した一語一音の中にあり、まるで花粉や朝露のように、香り高く、美しく発光している。
だから、単に言葉と感覚の遊びだなどと、わたしに思想がないと決めつける認識不足の意見に対しては、ただ微笑んでいればいいと思っている。
わたしは、そんなことに腹を立てるような未練がましい世界には、もう住んでいないつもりだ。
わたしの最近の詩の傾向については、本集の『古代新頌』の諸篇、あるいは『白い花鳥図』の「老鶏」、『海豹と雲』の「汐首岬」「樺太の山中にて」「曇り日のオホーツク海」「老いしアイヌの歌」など、『風を祭る』の「真昼」「架橋風景」、さらに「鋼鉄風景」における近代神の認識に至るまで、日本古神道の精神をこの現代に新しく再構築することにある。
わたしは、『古事記』『日本書紀』『風土記』『祝詞』などを、遠く霞む風雲の上から呼び戻し、強く古代神の復活を言葉の力に祈り、そこに近代の明かりと整った形を求めている。
わたしは日本民族の一人として、たやすく西洋で流行の思想に同調することを潔しとしない。
また思うに、古代の精神をつかむことは、決して古語や死語を掘り起こすことではない。
生き生きと躍動した古代の感情のリズムを、そのまま素手でつかみ取ることである。
わたしは、ようやく少しだけそれが会得できたように思っている。一方で、わたしは近代の幽玄というスタイルを、月光や花や鳥、そして古くからの風習の中に、ひそかに醸し出そうと試みてきました。
『白い花鳥図』『月光の谿』『童話の月』『花楮』といった作品群には、そうした試みが込められています。
また、旅の途上や日々の生活の中からも、わたしなりの詩の素材を拾い上げ、詩の世界を磨こうとしてきました。
『金粉の靄』『水郷の早春』『月夜孟宗の図』『春の蚊』『海豹と雲』『珠数工の夜』など、その他の章にも、それらが色を混ぜ合わせるようにして散りばめられています。
わたしは、自然と人生が交わるところに生まれる新鮮な輝きを、心ゆくまで楽しんでいます。
古くからある蒼いものさえも、まるで新しいもののように感じ取ること。そうして、限りない香りや色とりどりの輝きが、わたしの目の前の風景として、より大きく開かれていくのを感じること。そして、生きていることそのものを楽しむことこそが、人間の幸福なのだと思うのです。
とはいえ、世間でいうところの「楽天家」とは、少し見ている景色や考え方が違うかもしれません。
天王寺の墓のそばで暮らしていた時でさえ、わたしの「生きる喜び」は、わたし自身を心の底からあざやかに震えさせました。
そして、もっと謙虚であるべき自分自身について、深く考えさせられたのです。

詩の表現について、わたしは息遣いそのままに溢れ出るものを最上のものと考えています。
形があるようでないもの、色があるようで現れないもの、匂いはあるのに捉えどころのない、声なき声を、まるで心そのものの声として大切にしています。
わたしは、変わった表現や、嘘をつくような文学の使い方は好みません。
なぜなら、詩の表現において本当に大切なのは、文字そのものではなく、そこに含まれる「音」にあるからです。
声に出して読めば消えてしまうような、声なき音のゆらぎの中にこそ、真実があるのです。
最高の技術とは、どこまでも純粋であること。ほんの少しの雑音も、舌の上に乗った小さな小石のような違和感さえも、許すことはできません。
大雑把なものや、見栄を張った表現を、何よりも嫌います。
わたしは、一語一音に宿る奥深い秘密を探るために、自分自身を常に推敲という名の拷問台にかけているようなものです。
とはいえ、繊細な言葉の響きだけを調味して、全体としての表現を忘れてしまうような、軟弱なことは考えていません。
音は微細であっても、心は太くありたい。時には古代のような、飾り気のない力強さや素朴さを持ちつつ、奔放で自由であるべきだとも思っています。
それは、詩の素材や感動の度合いによって決まることなのです。

ただ、わたしはそのようにありたいと願っています。
もっとも、わたしの詩の技術そのものが、これこそが証拠だと言えるような完成されたものだという自負は、持ち合わせてはいません。

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