初級翻訳・潜航艇「鷹の城」 第6話

小栗 虫太郎

いずれにしても、艇長の死と遺体が消えてしまったということが厳然たる事実であることは、そのあとに艇を引き揚げた日本海軍の記録にもはっきりと記されているのです」

風はやみ、夜明け前の暗闇も去って、朝霧が晴れはじめました。
犬射は、感慨深い口調で、すっかり明るくなった海に向かって語り続けます。
「艇内は、その前後にバッテリーの電力が底をついてしまい、私たちが何よりも恐れていた、あの真っ暗闇が訪れました。
すると、それから二時間ほどたったとき、ガタリと艇体が揺れ、そのままどこかへ向かって動いているような気配が感じられたのです。
そうして私たちは奇跡的に救出されたのですが……もともと沈没の原因は、艇の先端をカニ網に突き刺してしまったからで、引き揚げと同時に水面に浮上したのは言うまでもありません。
ところが、あの暗闇のさなかに、私たち四人はとんでもない失敗をしてしまいました。
というのも、寒さに耐えかねて飲んだお酒が、実は工業用の木精(メチルアルコール)が混ざったものだったのです。そのせいで、せっかく助け出されたにもかかわらず、あの暗黒を最後に、私たちは光の恵みから永遠に遠ざけられてしまったのです。
あの燃え上がるような喜びは、ハッチが開かれると同時に跡形もなく砕け散ってしまいました。
自ら招いた過失とはいえ、私たちは第二の人生を、光を失った真っ暗闇の中から歩み始めなければならなくなったのです。
こうして『鷹の城』は浮かび上がり、私たちに関する物語はここで終わりを告げますが、『鷹の城』自身は、それからも数奇な運命を繰り返していきました。
というのも、引き揚げられたあと、小型船に引かれて航行する途中で、今度は宗谷海峡にて、綱が切れたことが原因で再び沈没してしまったのです。
そして、三度目に水面に浮かんだのは、ご承知の通り、夫人の熱心な願いによって試みられた、船長・八住による引き揚げ作業でした。
しかし、これまでに起きた二度の事件によって、『鷹の城』の悪運が尽き果てたことは疑いようもありません。
ただ願わくば、過ぎ去った悪夢の回想が、これからの恐怖をぬぐい去り、船長の新しい事業に幸運があることを。
そして、故フォン・エッセン男爵の魂に、安らかな眠りがあることを……」

      三、濃緑の海底へ

 艇長フォン・エッセン男爵の遺体が消えた。それも青い海の底、密閉された装甲の中で――この古くからの謎は、再び新しい魅力を帯びて一同の心に広がりました。
朝風が和やかに吹き、復六の縮れ毛を揺らしていましたが、彼は思い悩んだ様子で手を揉み合わせるだけで、もう二度とあの微笑みを浮かべることはありませんでした。
やがて、犬射復六が自分の席に戻ると、今度は一人の老人が、杖をつきながら列の中から出てきました。
その老人は、もちろん追放された王室支持派の一人で、長く立派なヒゲをたくわえ、黄色い大きなハゲ頭をした男でしたが、その口からは、艇長の遺体消失の謎をさらに複雑にし、無数の謎へと変えてしまうような事実が語られました。
「私は、王立カリンティアン快走艇倶楽部の会員として、かつてフォン・エッセン男爵に直接お会いした栄誉にあずかった者です。そんな私でさえ、これまではさまざまな噂に惑わされ、艇長の死をすぐには信じることができませんでした。
それが今、完全に否定されたことは、オーストリア海軍の歴史において最初の英雄であるフォン・エッセン閣下のため、祝福すべきことだと信じています。
けれども、『鷹の城』そのものは、かなり初期の沿岸用潜水艇です。おそらく、艇長のような鬼神に近い魔力を持つ人物でなければ、それを使って大洋を横断することなど、到底不可能だったに違いありません。
しかし私は、あの時『鷹の城』の脱出劇を聞いたとき、ふと暗く迷信的な考えに取りつかれました。
というのも、元来あの艇は、ドイツ型としてオーストリア帝国で最初に造られた潜水艇でした。その中が膨らんだ船体を見て、皇帝陛下が『これはハプスブルク家の唇(代々の特徴である厚い唇)に似ている』と愛でられたほど由緒あるものなのに、なぜ沿岸警備にも使われず、ペンキの剥げた姿を軍港の隅にさらしていたのでしょうか。
それは、シュテッヘ大尉の消失――あのトリエステ軍港の神秘が、そもそもの原因だったのです。一九一四年の開戦直前に起きて、あれほど強気な海兵たちを震え上がらせたというその不思議な出来事は、今聞いたばかりの艇長の遺体消失事件と、生死こそ違えど、まったく同じ筋書きをたどっているではありませんか。
奥様もご存じでしょうが、シュテッヘ大尉はフォン・エッセン閣下の親友でして、同じ快走艇倶楽部でもシーワナカ支部に属しておりました。
ところが、決闘で同僚の一人を傷つけてしまい、処罰されそうになったところを、艇長がUR―4号の奥深くに匿(かくま)ったのです。
ところが、ヴェネチア湾を潜航中、不思議なことにシュテッヘ大尉は忽然(こつぜん)と姿を消してしまいました。
その時、大尉は怪我をした足首に包帯を巻いていてびっこを引いていたそうですが、それにもかかわらず、士官室の寝台から不意にいなくなってしまったのです。
それ以後のUR―4号には、なんとも不気味な空気が漂うようになり、次々と不吉な出来事が起こる惨状でした。
そうなると、「シュテッヘ大尉の姿を見た」などと言う者まで現れる始末。
しまいには乗組員全員が転属願いに連名で署名する事態にまでなったため、当局としても放置できず、ついにUR―4号を軍のリストから除外してしまったのです。
UR―4号の悪霊――そこまでのおぞましい迷信的な力を信じるわけではありませんが、その二つの事件は、決して偶然の一致ではないと私は考えております。
私はそれを、いかにも明白で、絶対的な事実として感じているのです。
そして、もしやシュテッヘ大尉がその時も不思議な力で生き続けていて、友に最後の友情を贈ったのではないか。つまり、艇長の遺骸を、海の武人らしく母なる海底へと送り届けたのではないか――そんな妄想めいた考えが時折頭をもたげ、夢の中でも私を苦しめるのです」
老人はそこで言葉を切り、悩ましげにため息をついた。
しかし、そのシュテッヘ大尉事件の恐ろしさは、艇長消失の可能性を裏付けるようで、一同の血を凍らせ、身をこわばらせるような空気を生み出した。
続いて老人は、現在ウィーンで艇長生存説を猛烈に煽り立てている、ある不可思議な囚人のことを口にした。
「しかし、一方の共和国は、ハプスブルク家の英雄を巧みに利用して、今や復辟(ふくへき)運動を完全に望みのないものに変えてしまいました。
というのも、かつて国民から仰ぎ見られていたフォン・エッセン男爵を、忌むべき逃亡者としたばかりか、影武者を用意して、それとなく艇長の生存説を流布し始めたのです。
それが今日、ウィーンで噂の高い『鉄仮面』でして、フォールスタッフのような道化面をかぶった一人の男が、郊外のヘルマンスコーゲル丘にあるハプスブルク望楼に幽閉されているというのです。
そうなると、重大な国家犯罪者として疑われるのは艇長以外にありえませんから、その卑劣な作戦は見事に的中しました。

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