初級翻訳・火の鳥 第5話

太宰 治

僕は責任を持って、あなたを連れて帰ると約束したんですから。須々木さんのためにも、しっかりしていてください。僕は、乙やんのことを信じています。どんなことがあったって、僕は乙やんの味方です。それじゃあ、またそのうち来ます」

「どうも、今日はありがとうね」
さちよは、わざと少し投げやりな、冷めた話し方をしてから、うつむいて、そっと下唇を噛みしめました。
青年を見送りに行こうともせず、顔を伏せたまま、じっと座っていました。

階段をトントンと降りていく青年の足音が聞こえなくなってから、さちよはふっと顔を上げました。
「助七。私は、あなたと一緒にいるわ。どんなことがあっても、もう離れないからね」

「冗談はやめろよ」
助七は、めずらしく厳しい顔つきでそう言いました。
「おれだって、そこまでバカじゃないんだ」
そう言うと、助七はすっと立ち上がり、青年のあとを追いかけて部屋を出て行きました。

「ちょっと、君! 待ってくれ!」
劇場の新富座(しんとみざ)の前で、助七は走ってやっと青年に追いつきました。
「ちょっと、話したいことがあるんだけどねえ」

青年は振り返って、まっすぐ助七を見つめました。
「僕は、あなたのことを憎んでなんかいませんよ。むしろ、好きです」

「おいおい、そんなことを言うなよ」
助七は照れくさそうにニヤニヤしながら言いましたが、並木道の木の下にすっきりと立っている青年の、まるで絵画のように美しい姿を見て、さすがに真面目な表情になりました。
(本当に、なんてかっこいい男なんだろう)と、心から思ったのです。

「ちょっと、君に話したいことがあるんだ。いや、本当に少しの時間でいいんだよ。一緒にお茶でもしてくれないかい? おれだって……」
助七は少し言葉を濁したあと、こう続けました。
「おれだって、君のことが好きなんだ」

二人は、「三好野(みよしの)」という喫茶店に入りました。

「須々木乙彦っていうのは、君の親戚なんだってね?」
助七は、相手を「あなた」と呼んだり「君」と呼んだり、話し方がごちゃ混ぜになっていました。

「いとこです」
青年は、温かいミルクをふうふうとすすりながら答えました。朝から何も食べていなかったので、お腹がペコペコだったのです。

「あいつは、一体どんな男なんだい?」
助七の目は、とても真剣でした。

「僕の、僕たちにとっての……」
青年は、言葉に詰まってしまいました。

「ヒーロー(英雄)みたいな存在かい?」
助七は、少し困ったように笑いながら聞きました。

「いいえ、違います。愛する人です。僕たちが生きていくための、心のエネルギー(命の糧)なんです」

その言葉は、助七の心にズドンと強く響きました。

「ああ……それは、いい言葉だね」
助七は貧しい暮らしから必死に這い上がってきて、この十年間、こんなにも心のこもった、純粋で美しい言葉を聞いたことがありませんでした。

「おれは今年で二十八歳になる。十七歳の時からお店の小使い(給仕)として働いてきて、世の中の嫌な部分ばかり見て、人を疑うことばかり覚えてしまった。君たちは、本当にまぶしくて、うらやましいよ……」
助七は、それ以上言葉が出なくなってしまいました。

「いや、僕たちはただ、カッコつけてポーズをとっているだけですよ」
青年は言いました。眠れない夜が続いたせいで、彼の左目は赤く充血していました。

「でも、カッコつけているその奥にも、ちゃんと本物の命や気持ちが隠れているんです。冷たくすましているように見えても、それは照れ隠しで、本当はすごく深い愛情を持っている。僕は、須々木さんを見ていて、いつもそう感じていました」

「おれだって、生きていくための、大切な心のエネルギーを持っているんだ」
助七は低い声でそう言うと、なんだかとても親しげに、青年の顔をじっと見つめました。

「知っていますよ」と青年は答えました。

「返す言葉もないな。おれはもともと、身分の低い貧しい生まれさ。ただの、一つの体を持っているだけの、ちっぽけな男なんだ。ただそれだけを……」
助七は言いかけて、ふっと口を閉じました。それから、ぐっと身を乗り出して、声をひそめました。
「君は、あのさちよちゃんのことを、どう思う?」

「かわいそうで、気の毒な人だと思っています」
青年は、最初からその答えを用意していたかのように、すっきりと涼しげな顔で答えました。

「それだけかい? いや、これはここだけの秘密の話なんだけどね。何か、ちょっと不思議というか、おかしな感じがしないかい?」

青年は、図星を指されたように、ぽっと顔を赤くしました。

「ほら、やっぱりそうだ!」
助七は下唇を突き出して、ニヤリと笑いました。
「やっぱり、君もそう思うんだね。だけど、君はまだいい方だよ。たった一日、あの女と一緒にいただけなんだから。おれなんて、もうかれこれ一年になるんだ。三百六十五日だよ。そう、君の三百六十五倍も、おれはあのさちよちゃんという女の子に、ずっと振り回されて、苦しめられてきたんだから!」いや、あの女に罪はないんだ。
それは、あのひとが知らないことだからね。
罪があるとしたら、それはおれの下劣な血の中にあるのさ。
笑ってくれていいよ。
おれは、あの女に勝ちたいんだ。
あの人の肉体を、完全に自分のものにしたい。
それだけのことさ。
おれはこれまで、あの人にずいぶんひどく軽蔑され、憎まれてきた。
けれど、おれにはおれの念願がある。
いつか必ず、あの人に、おれの子を産ませてみせる。
玉のような女の子を、産ませてやるんだ。
どうだい。
復讐なんかじゃないんだぜ。
そんなちっぽけなことは考えていない。
そいつは、おれの愛情なんだ。
それこそが、愛の最高の表現なのさ。
ああ、そのことを思うだけで、胸が張り裂けそうだ。
狂いそうになる。
わかるかい?
われわれのような低い身分の人間の気持ちがさ。

そう言ってねちねちと話しているうちに、助七の唇の色は変わり、口の端には白い泡がたまって、まるで兇悪な顔つきにさえ見えてきた。

「今度の須々木乙彦とのことは、許してやる。
一度だけは、許す。
おれがいま、ひどく馬鹿にされた立場にいることは、おれだってわかっている。
はらわたが煮えくり返るような思いだというのは、これ、まさしく本心なんだ。
けれどもおれは、自分を軽蔑する女を、そんな高慢な女を、たまらなく好きなんだ。
蝶々のように美しい。
因果なものだね。
うんと高慢でいればいい。
どうだい、これからも、あの女と遊んでやってくれないか。
それは、おれからのお願いなんだ。
卑屈になって言っているんじゃない。
おれはもともと、高尚な人間が好きなんだ。
讃美しているのさ。
君はとてもいい。素晴らしいよ。
皮肉でも嫌味でもなんでもない。
君みたいないい人と穏やかに遊んでいれば、きっとあいつはもっとか弱く、美しくなるはずだ。
それは確かだ」

たらりとよだれがテーブルの上に落ち、助七はあわててそれを掌で拭き消すと、こう続けた。

「あいつを、美しくしてくれ。
おれのとても手の届かないような、素晴らしい女にしてほしいんだ。
ねえ、頼む。
あいつには、あなたが絶対に必要だ。

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