初級翻訳・火の鳥 第11話

太宰 治

ありのままの自分に、体一つに、ちゃんと自信を持っていてくれたら、それだけで女の子はどんなに嬉しいか分からないわ。

お互いにちょっとした勘違いのせいで、男の人も女の人も、ずいぶんおかしなことになっちゃっているのね。

もう、もどかしくて仕方がないわ。

みんながそのことに気がついて、『なんだ、そうだったのか』って笑い合ってやり直せば、とっても幸せになれるのに。

そうすれば、この世界はもっともっと、暮らしやすくて楽しい場所になるはずなのにね」

「あーあ、なんだか難しいお勉強をした気分だわ」数枝は、わざとらしく、ふわーっと大げさなあくびをしました。「それで? あなたを連れ去ったあの須々木乙彦さんは、そんなに良い人だったわけ?」

さちよは、数枝のいじわるな言い方をちっとも気にすることなく、こう続けました。

「あの人ね、本当に不思議でおかしいのよ。

すごく子供みたいな、きょとんとした顔をしてね、『僕は、おっぱいっていうのは、お母さんにだけあるものだと思っていたんだ』なんて言うのよ。

それがね、かっこつけているわけでも、ふざけているわけでも、何でもないのよ。

本当に、恥ずかしそうに、ぽつりと言ったの。

『ああ、この人は、これまでどれほど寂しくて、つらい生活を送ってきたんだろう』と思ったら、なんだか嬉しくて、ありがたくて、そして愛おしくて、胸がいっぱいになって涙がこぼれちゃった。

私、一生この人のそばにいてあげよう、って心から思ったの。

なんて言うのかな、ずっとその人を包み込んであげる『お母さん』みたいな気持ちかしら。

私みたいな者まで、そんなに優しくてきれいな気持ちになれるなんて、あの人は本当に素敵な人だったわ。

私、あの人がどんな難しい考えを持っているのかなんて、ちっとも知らないの。

でも、そんなの知らなくたっていいの。

あの人は、私に『自信』をくれたんだもの。

私だって、誰かの役に立つことができるんだって。

誰かの心の奥を、本当にぽかぽかと温めてあげることができるんだ。そう思ったら、もう、その幸せな気持ちのままで死んじゃってもいいとさえ思ったわ。

それなのに、今ではこんなに丸々と太って元気に生き返っちゃって、なんだか恥ずかしいわね。

せっかく生き返ったのに、こうして毎日ただ同じことの繰り返しで暮らしていて、本当にこれでいいのかなって、たまらなく不安で細い気持ちになることがあるの。

時には、わーっと大声で叫び出したくなっちゃうくらい。

どうせ一度は死んだはずの命なんだから、何でもいいの、少しでも誰かの役に立てるなら喜んで立ちたいわ。

どんなにつらいことでも、どんなに苦しいことでも、私は我慢して乗り越えてみせる」

さちよはお布団からそっと頭を持ち上げて、ささやきました。

「ねえ、数枝。聞いてる? あの『歴史の先生』だけどね。あの人だって、私、そんなに悪い人じゃないと思うのよ」「あの歴史の先生ね、私を女優にしようって、すごく張り切っているの。でも、どうかしら。数枝だって、私がいつまでもここで何もせずに、ただで泊まっていたら、やっぱり重荷に感じて気持ちが重くなっちゃうでしょ? もし私が女優になることで、歴史の先生がやりがいを感じて、元気に良いお仕事ができるようになるなら、私、女優になってもいいかなって思うの。私がその気になりさえすれば、あとは準備がすっかり整っているんだって、先生が言っていたわ」

「あんたの好きなようにすればいいじゃない。きっと大女優になれるわよ」
数枝は、また少し不機嫌そうな声で言いました。

「そりゃあね、私だって、ときどきイライラしたり、モヤモヤすることくらいあるわよ。『この子はいつまでここにいて、これからいったいどうするつもりなんだろう』って、さちよの図々しさに腹が立つことだってある。でもね、私は昔から、一つのことを三分以上は考えないって決めているの。だって、めんどくさいんだもん」

「どんなに長い時間悩んだって、結局はどうにもならないしね。実際にやってみなくちゃ分からないことばかりなんだから、悩むだけバカバカしいじゃない」

「私にだって、心配なことくらい、それはもうたくさんあるのよ。だから、一つの悩みごとは三分だけ考えて、解決するかどうかなんて気にせず、すぐに次の悩みに切り替えるの。それをまた三分だけ考えて、さらに次のことを三分……。この切り替えは、もうすっかりお手のものよ」

「心の中にある『心配ごとの引き出し』を順番に開けて、中身をチラッと確認したら、すぐにパタンと閉めちゃうの。そうして、そのままぐっすり眠るのよ。これ、とっても健康にいいんだから。どう? 私にだって、なかなかしっかりした生き方のルールがあるでしょ?」

「ありがとう、数枝。あなたって、本当にいい人ね」

数枝はてれくさくなって、わざと違う話をしました。
「あ、みぞれがやんだみたい」

「ええ」さちよは、言いたいことをすっかり全部話して、あとはすっきりした顔をしていました。
「明日、お天気になるといいわね」

「うん。朝起きたときに、空がからっと晴れていると、それだけで嬉しいものね」
数枝も、何気なくそう相槌を打ちました。朝の青空を想像すると、やっぱり心がウキウキしてきます。でも、たったそれだけのことなのに、こんなに楽しみにして眠りにつく自分自身が、なんだかいじらしく思えてきました。それに、たとえ明日が晴れたからといって、自分に何かいいことがあるわけでもないのに……と思うと、一人でクスッと笑いたくなってしまいます。数枝はお布団を頭からすっぽりとかぶりました。すると、目尻から涙がスーッとあふれてこぼれ落ちました。「おや、これはあくびの涙かしら。それとも私、泣いているの?」と、さすがに慌ててしまいました。でも、とにかく、このさちよが女優になるというのです。「よし、これは私が、ファンクラブでも作って応援してあげなくちゃいけないわね」と心に決めるのでした。

☆

それは、大成功でした!
劇団の名前は「鴎座(かもめざ)」。劇場は「築地小劇場(つきじしょうげきじょう)」。
演じるお芝居は、有名なチェーホフの『三人姉妹』です。
新しく女優になった高野幸代(さちよ)は、三姉妹の長女であるオリガの役を、見事に演じきりました。
昭和六年(1931年)の三月の終わり、七日間にわたる公演でした。

青年である高須隆哉(たかすたかや)は、そのお芝居の三日目に見に行きました。
いよいよ幕が上がります。
オリガ、マーシャ、イリーナの三人の姉妹が、舞台の上に立っています。
やがて、さちよが演じるオリガの独白(一人語り)が始まりました。
最初は声が小さくて、よく聞こえませんでした。
隆哉は、薄暗い観客席のすみっこで、一生懸命に耳をすませました。
とぎれとぎれに、言葉が聞こえてきます。

「――あの日、本当に寒かったわね。雪が降っていたもの」
「――私、もう生きていられないんじゃないかって思うくらい……。

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