でも、あれからもう一年がたって、私たちもその時のことを、少し楽な気持ちで思い出せるようになったわ……」
(ここで、舞台の時計がボーン、ボーンと十二時を打ちます)
ゆっくりと響く舞台の時計の音を聞いているうちに、隆哉は急にソワソワして、あたりをキョロキョロと見回し始めました。そして、「ちぇっ、ちぇっ」と二回も激しく舌打ちをすると、席から勢いよく立ち上がり、そのまま劇場の廊下へと飛び出してしまいました。
「僕は、あんな女は絶対に嫌いだ! あんな女、ちっとも好きじゃない!」
隆哉は心の中で叫びました。
「あいつは結局、うぬぼれ屋なんだ。あの女には、謙虚(けんきょ)という気持ちがちっともない。自分さえその気になれば、何だってできると思い込んでいるんだ」
「どうしてあいつは、故郷を飛び出して、女優なんてものになったんだ? 舞台の上であんな風に堂々としている様子じゃ、あいつを連れ去った須々木乙彦(すすきおとひこ)のことなんて、もうちっとも、これっぽっちも思い出してなんかいないんだ。あいつは悪魔か、それとも何も考えていないバカなのか? いや、違う。女の子っていうのは、みんなあんな風に、都合よくできているものなのかもしれないぞ」
「喜びも、信じる心も、感謝も、苦しむことも、狂うほどの感情も、憎しみも、愛し合うことも、全部その一瞬だけのものなんだ。その場限りのことなんだ。少し時間がたてば、何事もなかったかのようにケロッとしている。まったく恥ずかしいと思わないのか! ……いや、それこそが、飾りのない本当の人間らしさなんだと、僕だって前はそう思っていたことがあったけれど」
「僕は科学者だ。人間の体や感覚の仕組みについては、すべて知り尽くしている。でも、僕は『体がすべてだ、目に見えるものだけが本物だ』なんていう考え方は、絶対に認めないぞ! 本に出てくる科学ばかりを信じる冷たい人間なんて、考え方が甘すぎるんだ。人間のすべてのことを決めるのは、心であり、何かを信じる強い力なんだ。僕は、聖母マリア様が神様の子を授かったという奇跡だって、そのまま真っ直ぐに信じている。そのせいで、科学者としての僕の立場がめちゃくちゃになって、ダメになってしまったって、全然かまわないんだ!」「僕は、まっすぐで本当の人間でありたいんだ!」なんて、自分でもわけのわからない決意を固めようとして、隆哉(たかや)は全身を怒りでブルブル震わせていました。寒い廊下を大きな足取りで行ったり来たりしながら、まるで自分がひどくバカにされているような、世界中の人から笑われているような、たまらない気持ちになっていたのです。「こんなとき、乙(おつ)やんが生きていてくれたらなあ……」と、亡くなった須々木乙彦(すすきおとひこ)のことが急に恋しくなりました。さっきまでの激しい怒りは、いつの間にか胸が締め付けられるような悲しみに変わり、今にも涙がこぼれそうになった、その時です。
「よう!」と肩を叩いたのは、助七(すけしち)でした。
「君、初日の舞台は見なかったんだね?」
――私、あなたの気持ち、よくわかるわ、マーシャ。
廊下には、舞台の上でさちよが演じるオリガが、涙声でそう言っているのが聞こえてきました。
「素晴らしいなあ」
助七は目を細めて言いました。
「初日の評判、新聞で読みませんでしたか? 大ニュースですよ、大ニュース! 『天才女優があらわれた!』って大騒ぎなんです。あはは、笑いごとじゃありませんよ、本当なんですから。僕のところでは、梶原(かじわら)さんっていう有名な先生に劇の感想を頼んだんですが、あのおじいさん先生なんて涙を流さんばかりに感動しちゃってね。『オリガの苦しみというものを、この女優のおかげで初めて知ることができた』なんて言って、さしもの先生もすっかり降参しちゃったんですよ。どれどれ、ちょっと拝見」
助七は後ろのドアをそっと細く開けて、舞台をのぞき込みました。
「なんだか、こう、ドシッとした貫禄(かんろく)がありますね。まるで別人のようだ。あ、舞台から袖に引っ込んだぞ」
ドアをピタッと閉めると、助七は隆哉の顔をチラッと見て、ニヤリと笑いました。
「うまいなあ! 落ち着きはらっている。あいつは、まだまだ大物になれますよ。しめたものだ。なにしろ、あいつは怖いもの知らずな女ですからね」
「あなたは、毎日見に来ているんですか?」
隆哉が無表情に尋ねると、助七は少しムッとしたようで、話し方を変えました。
「そうだよ。僕は照れ隠しで、こんなにはしゃいでいるわけじゃないんだ。君たちと違って、僕は正直なんだよ。自分の気持ちを嘘で隠すなんてできないんだ。嬉しいんだ。本当に、本当に嬉しいんだよ! 踊りだしたいくらいだ。会社の仕事なんて、どうにでもごまかせるからね。毎日ここへ来て、廊下でみんなの評判を聞いているんだ。バカにしないでくれよ」
「それは、あなたは嬉しいでしょうね」
隆哉は軽くうなずきましたが、やっぱり無表情のままでした。
「あの人も、だんだん立派になっていくし……」
「えっへっへ!」
助七は、急に顔をほころばせました。
「わかってるじゃないか。それを言われちゃ、もう何も言えないよ。君、まだ忘れていなかったんだね。僕があいつを『立派で気高い女にしてくれ』って君に頼んだこと、まだちゃんと覚えていてくれたんだね。いやあ、まいったなあ。ありがとう、ありがとう! これからも、お互いよろしく頼むよ」
そう言いながら、助七はそっとドアに耳を寄せました。
「あ、いけない。ヴェルシーニン(登場人物の名前)が出てきた。僕はあのヴェルシーニンの性格が、どうしても我慢できないんだ。背筋が寒くなるような、嫌なやつなんだよ」
助七は隆哉の肩を抱きかかえるようにして言いました。
「ねえ、あっちへ行こう。楽屋にでも遊びに行ってみないか?」
歩きながら、助七は文句を続けます。
「ヴェルシーニンめ、本当に鼻持ちならない。僕はとうとう、あいつのセリフまで覚えちゃったよ」
助七は、えっへんと軽くせきばらいをして、舞台のセリフを真似し始めました。
「――そうです。忘れられてしまうでしょう。それが私たちの運命なんですから。どうしようもありません。私たちにとって、どんなに真面目で、深い意味があって、すごく大事だと思えることも、時間がたてば……忘れられてしまうか、大したことではなくなってしまうのです。――ちぇっ、まるで(役者の)三木朝太郎そっくりじゃないか。――そして、私たちがこうして我慢している今の生活も、そのうちにおかしくて、汚くて、無知で、バカバカしくて、もしかしたら罪深いもののようにさえ思われるかもしれないのです。――いよいよ三木だ。あきれて、吐き気がしそうだよ」
「もしもし」
水兵さんのような服を着た女の子に、小さな声で呼び止められました。
「あの、これを……高野(さちよ)さんからです」
それは、小さく折りたたまれた紙の切れ端でした。
「なんだい?」
助七が大きな右手を差し出すと、青白い顔をした目の大きなその女の子は、まるで有名な女優さんのように、キリッと威厳(いげん)のある態度で言いました。
コメント