「あなたではありません」
「僕だ」
隆哉は横からひったくるようにして受け取り、顔をしかめながら開いて見ました。
紙ナプキンに、色鉛筆でくっきりとはっきり書かれていました。
――さっき、私の舞台に向かって、すごく大きな舌打ちをして、そのままさっさと廊下に出ていくあなたの姿が見えました。あなたのその態度は、一番正しいわ。あなたの感じ方も、一番正しい。私には、あなたの気持ちが心の隅々までよくわかります。私は舞台の上で、自分の本当の姿をはっきりと思い知らされました。……ああ、私っていったい何者なのかしら。自分のことが、まるでこんにゃくのお化けみたいに、汚くてどうしようもないダメな人間に思えて、泣きそうになってしまいました。
舞台の上で、着ている青いドレスをビリビリに引き裂いてしまいたいほど、不安でたまらなかったのです。
私は、ちっとも図太い人間なんかじゃありません。
「生きている死体」……そんなカッコつけた言葉でしか、今の自分を説明できないんです。
私は、ちっとも浮かれているわけじゃないんです。
そのことをわかってくれるのは、あなたしかいません。
だから、私をいじめないでください。お願いです。
どうか、見ないふりをしていてください。
私は、もう精一杯なんです。
「生きていかなければならない」。誰が私に、そんなことを教えてくれたのでしょうか。
それは、(劇を書いた)チェーホフ先生ではありません。
あなたの「乙(おつ)やん」……亡くなった須々木(すすき)さんが、私に教えてくれたことなんです。
でも、あなたも教えてください。一言だけでいいから、教えてほしいのです。
私は、間違っているのでしょうか? 聞かせてください。
私は、楽なことや良いことだけを求めて生きている、ダメな女に見えますか?
いっそ、私のことをバカにしてください。
ああ、もう、頭の中がめちゃくちゃです。
私を呼ぶ声がします。舞台に戻らなければなりません。
「十時に――」
というところで、手紙は途切れていました。
隆哉(たかや)は顔を真っ青にして、少しだけ笑うと、その紙をビリッと二つに破りました。
「見せろよ。デートの約束か何かなのかい?」
「君には、これを読む資格なんてないよ」
隆哉ははっきりと言って、さらにその紙を四つに引き裂きました。
「あなたの応援している高野さちよっていう役者は、たいした演技派ですね。舞台の上だけじゃなくて、廊下でまでお芝居を続けているんですから」
「そんなひどいことを言うもんじゃないよ」
助七(すけしち)は困ったように両手を頭の後ろで組んで言いました。
「嫌味だなぁ。さちよだって、一生懸命書いたんだろう? 会ってやりなよ。きっと喜ぶからさ」
助七にグイッと背中を押されて、隆哉はよろけました。でも、その背中に押された手のひらから、なんだか温かい人間の真心を感じたのです。彼はそのままフラフラと歩きだし、一人で劇場の裏側へと向かいました。
生まれて初めて足を踏み入れる、楽屋の世界でした。
☆
実は、高野さちよは一ヶ月ほど前から、三木(みき)という役者と一緒に暮らし始めていました。
「数枝(かずえ)さんは良い人。死んでも忘れない。働かなきゃ、私、死んじゃう。何も言えない。カモメは、あれは、しゃべれない鳥なの」……そんな、少し頭が混乱したような言葉を書き残して、彼女はそれまでお世話になっていた八重田数枝のアパートから姿を消したのです。
彼女が淀橋(よどばし)にある三木の家を訪ねたのは、その日の夜の八時ごろでした。
三木は留守でしたが、そこには小柄でふっくらとしたお母さんがいました。家賃が三十円くらいの、まだ新しい二階建ての家です。
さちよが名前を名乗ると、お母さんは「おお」と上品にうなずきました。
「朝太郎(あさたろう)からお噂は聞いていますよ。今日は何かの集まりがあるとかで、お昼から出かけていますが、もうそろそろ帰るでしょう。さあ、中へお入りなさい」
と、優しく招き入れてくれました。顔も手もツヤツヤしていて、とても品のあるおばあさんでした。
さちよは緊張がすーっと解けて、まるで自分の家に帰ってきたような気持ちになりました。案内してくれるおばあさんよりも先に、一階の茶の間へさっさと入り込むと、まるで生き返った金魚のようにひらひらと真っ赤なコートを脱ぎ捨てました。
「お母様でいらっしゃいますか? はじめてお目にかかります」
とお辞儀をしましたが、なんだか甘えたい気持ちがこみ上げてきて、両手をそろえて丁寧にお辞儀をしながら、思わずプッと吹き出してしまいました。
お母さんは平気な顔で、
「はい、こんばんは。朝太郎がいつもお世話になっております」
と挨拶を返しました。お母さんもまた、のんびりした笑顔を浮かべています。それは、なんだか不思議と元気がわいてくるような、あたたかい場面でした。
長火鉢(ながひばち)をはさんで、お母さんは瀬戸物の置物みたいに綺麗に、ちょこんと座りました。少しうつむきながら、やがてこんな話を始めました。――
「あれは私の一人息子で、あんな化け物みたいな男ですけれど、私はあの子を信じているんですよ。あの子の父親は、今年で亡くなってから七年になります。昔の話を自慢するのは恥ずかしいことですけれど、お父さんが元気だった頃は、前橋……ええ、上州(今の群馬県)ですね、あそこで一番のお店と言われるくらいの立派な料理屋をやっていたんです。大臣や軍の偉い人、知事さんなんかも、前橋に来たときには必ずうちのお店に寄ってくださったものです。あの頃は本当に良かった。私も毎日やりがいがあって、一生懸命に働きました。ところが、あの子のお父さんが五十歳のときに、悪い遊びを覚えてしまいましてね。相場(お金のギャンブルのようなもの)ですよ。ダメになりだしたら、あっという間でした。ある朝ふと気づいたら、もう一文無し。きれいに何もなくなってしまって、なんだか笑っちゃうくらいでしたよ。お父さんは、みんなに合わせる顔がなかったんでしょうね。そんなことになってもまだ見栄を張って、『なあに、俺には内緒で隠している山があるんだ。金がザクザク出る山を一つき持っているんだぞ』なんて、まるで子供みたいな、とんでもない嘘をつき始めましてね。男の人っていうのは、つらいものですね。長年一緒にいた私にまで、苦しいのに見栄を張らなきゃいけないんですから。私たちに、その『金の山』のことを、真面目な顔をして細かく一生懸命に話して聞かせるんですよ」お父さんの話が嘘だとわかっていたからこそ、聞いている方は情けなくて、恥ずかしくて、でもなんだかかわいそうでもあって、涙が出てきて困ってしまいました。
お父さんは、私たちが真面目に聞いていないことに気づくと、ますますムキになりました。地図などをたくさん広げて、いかにも本物らしく、一生懸命にひそひそと説明するんです。最後には「よし、これからみんなでその山に行こうじゃないか!」とまで言い出して、私は本当にどうしていいか分からなくなってしまいました。
町の誰かれ構わずつかまえては、その金山の話をするので、私は恥ずかしくて死にそうでした。
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