君にはハッキリした目的があって、どうしてもやり遂げたいという強い願いがあって、そして、ちゃんとかしこい具体的な計画があるから東京へ出てきたんだと、そう思っていたんだ。
それなのに、どうだ。八重田数枝さんのところに転がり込んで、そのまま何もしないでいるじゃないか。数枝さんはお人好しだから、何も言わずにのんびりと君の世話をしてくれていたみたいだけど、本当はすごく迷惑だったと思うよ。君が精一杯だと言うなら、数枝さんだって自分一人が生きていくだけで精一杯なんだ。ギリギリのところで生きているんだよ。少しは他人の弱さを思いやって、大切にしてあげなよ。君のうぬぼれは、本当に恐ろしいよ。
僕だって、君のせいで何度恥をかかされたかわからない。あんな汚らしい新聞記者とケンカをさせられて、それを黙って面白そうに見ていやがって。僕はあんな奴とは口をきくのも嫌なんだ。僕はプライドが高い男なんだ。どんなに偉い先輩に呼び捨てにされたって、嫌な気持ちになる。僕はそれだけ誇りを持って仕事をしているんだから。あんな奴と決闘までして、後になって僕がどれだけ恥ずかしくて苦しい思いをしたか、君は知らないだろう。生まれて初めて、あんなに格好悪いことをしてしまった。君は一体、僕のことを何だと思っているんだ?
数枝さんのところに居づらくなったからって、今度は僕の家に飛び込んできて、『うぬぼれないで、仕事の相談に来ただけよ』なんて……。いつもの僕なら、今ごろ君の横っ面を二、三発ひっぱたいているところだぞ」
三木は流石に、顔が真っ青になっていました。さちよは、ぼんやりと顔を上げて言いました。
「……殴らないの?」
「寝ぼけたことを言うなよ」
三木は苦笑いをして、タバコの煙をゆっくりと吐き出しました。
「さあ、帰りなさい。僕は言いたいことは全部言った。これからは君とは距離を置くつもりだ。君も少しは自分で考えなよ。帰れ。道端で迷って困ったとしても、僕の知ったことじゃない」
さちよはもじもじしながら言いました。
「道端は、寒くて、嫌だもん……」
三木は思わず吹き出しそうになり、「笑わせてごまかそうとしたってダメだよ」と言いましたが、自分が完全に負けたことをはっきりと感じていました。
「さちよ、ここにいたいのか?」
「いたい」
「女優になるか?」
「なる」
「ちゃんと勉強するか?」
「する」
三木の腕の中で、さちよは小さな声で答えました。
「バカなやつだな」
三木はさちよの体から離れて、「お母さんと、どんな話をしていたんだい?」と聞きました。その声は、いつもの優しい三木さんに戻っていました。
「私、お母さんのこと大好きよ」
さちよは髪をかき上げて言いました。
「これから、うんと親孝行するつもりなの」
こうして、三木と一緒に暮らす生活が始まりました。三木は演劇の世界で、不思議なほど大きな力を持っていたのです。三木さんの背後には、演劇界の大物である鶴屋北水(つるや・ほくすい)さんという強い味方がついていました。そのおかげもあり、三木さんの作る独特な雰囲気のお芝居は、演劇界の人たちから「すごいけれど、ちょっと怖いな」と、尊敬と恐れが混ざったような目で見られていたのです。
さちよの働く場所は、すぐに決まりました。「鴎座(かもめざ)」という劇団です。
そのころの鴎座は、本当に素晴らしい劇団でした。日本の知識人たちはみんな、鴎座が一生懸命に新しい演劇を作ろうとしていることを心から尊敬していました。
劇団のリーダーは、尾沼栄蔵(おぬま・えいぞう)さんという、とても家柄の良い貴族の方でした。役者さんも、日本で一番と言われるような名優たちがこぞって参加していました。外国の昔の名作や、まだ名前の知られていない日本の作家が書いたお芝居もどんどん取り入れて、毎月一回、一週間ずつの公演を行い、日本の文化をたしかに高めていったのです。
大物の鶴屋北水さんの推薦と、三木朝太郎さんが一生懸命に動いてくれたおかげで、さちよはいきなり、とても重要な役を任されることになりました。それは、『三人姉妹』というお芝居の長女、オリガの役でした。
「いいかい、オリガを演じる時は、悲しい気持ちをグッとこらえて、こらえて、もうこれ以上は無理だというところまで我慢するんだ。そして、お芝居の最後に、その気持ちを一気に爆発させる。それだけを心がければいい。あとは、リーダーの尾沼君の言うことを信じてついていきなさい。彼は本当に立派な男だからね。それから、他の役者さんの邪魔をしないように気をつけるんだよ」
三木さんはそれだけ言うと、あとは何も教えませんでした。三木さんには、自分自身の仕事があったからです。
二階の六畳の部屋に閉じこもって、原稿用紙に書き始めては「違う!」とクシャクシャに丸めて壁に投げつけ、ゴロンと寝転んでタバコを吸ったり、またパッと起き上がってコツコツと書いたり……。毎晩、遅くまで眠らずに机に向かっていました。どうやら、何か大きな作品に取りかかっているようでした。
さちよも、なまけてはいませんでした。毎日毎日、尾沼栄蔵さんの稽古場に通いました。「ゴホン、ゴホン」と変な咳が出るようになり、ふっくらしていたほっぺたがシュッと細くなってしまうほど、一生懸命に悩み、努力し続けました。
いよいよ舞台の初日が近づいてきました。三木さんはこっそりと尾沼栄蔵さんのところへ行って、さちよの様子を聞きに行きました。
帰ってきた三木さんは、さちよにこう言いました。
「君の演技が上手いわけじゃない。他の役者が下手すぎるんだ、と尾沼君は言っていたよ。君はこの舞台できっと評判になるだろう。でも、それは君に才能があるからじゃない。今の日本の役者たちが、それだけ遅れているからなんだ、とね。いいかい、自分が優れているなんて思っちゃいけないよ。周りの人が褒めてくれても、それを真に受けちゃダメだぞ」
三木さんは叱るような厳しい言い方をしましたが、それでもその日の夜は珍しく、自分のお母さんとさちよを相手に、お茶の間で楽しそうにお酒をたくさん飲みました。
そして迎えた初日。舞台は大成功でした!
二日目には、高野幸代(さちよ)は、もう日本を代表するような女優の一人になっていました。
ところが三日目、思わぬところでつまずいてしまいました。高須隆哉(たかす・りゅうや)という青年が、客席で「チッ」と舌打ちをしたのです。その小さな音が、さちよの完璧な演技に、深くて小さな傷をつけてしまいました。
高須隆哉が楽屋を訪ねていくと、ちょうど第一幕が終わったところでした。さちよは楽屋でたくさんの人に囲まれて座り、大きな口を開けて笑っていました。部屋の中はタバコの煙で真っ白で、誰かが何かを言うたびに、みんながドッと笑い声を上げる、とても賑やかな雰囲気でした。
高須は、その入り口に立ち尽くしました。さちよは高須に気づきません。まだ演技が終わったばかりの興奮が冷めないのか、天井を見上げて、キーキーと甲高い声を出しながら笑い転げていたのです。
「ちょっと、あなた、ごめんなさい」
耳元で誰かがささやきました。大きな黒いアゲハ蝶のような影が、ぴたっと高須の全身を覆い隠すように現れました。
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