おじさんは、どうしてあの火星のボートの中にいたの? 僕が火星のボートの中で目を覚ましたとき、おじさんは隣の部屋から出てきたでしょう? ということは、おじさんは僕よりも前から、あのボートの中にいたってことだよね?」
丸木は、どんどんスピードを上げて走り続けながら、
「こら、千二! 余計な口をきくんじゃない。だまっていなさい!」
と、厳しく叱りつけました。
その声から、丸木がとても機嫌を損ねているらしいことが伝わってきました。
千二くんは丸木に叱られて、しばらく黙っていました。
けれど彼は、まもなくまた丸木に話しかけました。
「ねえ、丸木さん。今はまだ昼なのかな、それとも夜なのかなあ?」
「よくしゃべる子供だな。そんなことぐらい、いちいち聞かなくたって分かるだろう」
丸木の返事は、相変わらずぶっきらぼうなものでした。
「だって僕には、昼なのか夜なのか、さっぱり分からないんですよ。だって、こんなに厳重に目隠しをされているんだもの」
「ああ、そうだったな」
丸木は、ようやく思い出したようでした。
「いまは夜だよ。外は真っ暗で、どの家も戸をぴっちり閉めているよ。そんなことを聞いて、一体どうするつもりなんだ?」
「じゃあ今、何時くらい?」
「時間か? さあな、何時だかさっぱり分からない」
「おじさんは、時計を持っていないの?」
「時計? 時計なんて持っているわけがないだろう。おい千二、「東京に近づいたから、もうお喋りは禁止だぞ」
「えっ、もう東京の近くまで来たの?」
千二は、丸木の足の速さにびっくり仰天しました。さっきからまだ20分も経っていないのに、もう東京の近くに来たと言うのです。そんなバカな話があるでしょうか。千二は、丸木が嘘をついているのだと思いました。
しかし丸木は構わず、どんどん駆け続けていきます。しばらくして、丸木が声をかけました。
「おい千二、もう東京の中だ。買い物をするなら、銀座がいいんだろう?」
「さあ、僕はよく知らないよ。だって、そんなに何度も東京へ来たことがないんだもの」
「なーんだ。お前は、こんなに近い東京をよく知らないのか。とにかく、銀座へ出よう。さあ、このあたりなら人通りもないから、お前の目隠しを取るにはちょうどいい場所だ」
そう言うと、丸木は初めて足を止めました。袋に入っていた千二は、丸木の肩からドサッと地面へ下ろされました。
「今から中から出してやるし、目隠しも取ってやる。だがその前に一つ、厳しく言っておくことがある」
丸木は言葉の最後に力を込めて言いました。千二は、丸木が何を言い出すのかと、黙って待ちました。
「いいか。忘れないように、よく聞いておくんだぞ。ここでお前の体を自由にしてやる。しかし、買い物が終わらないうちに逃げ出したりすると、お前の命が危ないぞ。命が惜しければ、よく言うことを聞くんだ。わかったか」
千二は、丸木に脅かされて、本当のところは腹が立ちました。
(なによ、この野郎!)
と思いました。千二少年だって日本人です。むやみに脅かされて、それでおめおめと引き下がっているような弱虫ではありません。ですが、この状況で丸木と取っ組み合いをするのは得策ではないと判断し、
「僕、逃げたりなんかしないよ」
と答えました。
「逃げないと言ったな。よし、その言葉を忘れるな。ふふふふ。やっぱり人間という奴は、命が惜しいとみえる」
丸木は、鼻の先でふふふと笑いながら、千二を袋の中から引っ張り出しました。
「さあ、ちゃんと立ってみろ。後ろを向いて、しっかり立つんだぞ」
千二の足はフラフラでした。袋の中で変な格好で足を曲げていたので、感覚がおかしくなっていたのです。丸木が千二の頭の後ろでゴソゴソと何かをしていましたが、次の瞬間、千二の目の中にパッと夜の光が飛び込んできました。美しい広告の明かりです。銀座が、千二のすぐ目の前に広がっていました。
「あっ、本当に東京に来たんだ! 丸木さん、僕たちはさっきまで千葉県にいたはずなのに、どうしてこんなに早く東京へ着いたの?」
「そんなこと、どうでもいいじゃないか」
すぐ横で丸木の声がしました。千二が振り返ると、そこには例の黒ずくめの服装をした丸木が、眼鏡をキラキラさせて立っていました。
「さあ、薬屋へ行くぞ。いいかね、逃げると承知しないぞ」
そう言って丸木は千二の手を握りました。それは氷のように冷たい手でした。いや、丸木は革の手袋をはめているようです。二人が立っているのは銀座の裏手の掘り割りのそばで、人通りはありませんでした。だから、二人は怪しまれることもなく、こんな会話をすることができたのです。
「薬屋へ行って、何を買うの?」
「ボロンという薬だ。ボロンの大きな瓶を、二、三本買いたい」
「ボロンをどうするの? 何に使うの?」
「お黙り。お前は、早く薬屋を探せばいいのだ」
6 悪人丸木
丸木に脅かされながら、千二は賑やかな銀座の通りでようやく一軒の薬屋さんを見つけ、その店先をくぐりました。千二は薬剤師らしい白い服を着た店員に、
「あのう、ボロンの大瓶を二、三本売ってくれませんか」
とおそるおそる言いました。
「ボロン? ボロンですか? 硼素(ほうそ)のことですかね」
「さあ……」
「白い粉末になっているやつでしょう?」
「さあ、どうでしょうかねえ」
千二は何も知らないので困り果てて、後ろを振り返りました。すると店先で他人を装っていた丸木が、「それだ、それだ」という意味を伝えるために、小さく頷いてみせました。千二は元気を取り戻して、
「ああ、それですよ。白い粉末のボロンです」
「精製のものと、普通のものがありますが、どちらになさいますか?」
「さあ、精製のと普通のと、どちらがいいのでしょうかねえ」
千二はまた後ろを振り返りました。すると丸木は手を上にあげて、合図を送りました。精製の方がいいという意味のようです。
「いい方をください」
「はい、承知しました。三本でよろしいのですね。では一本、ただ今二円三十銭ですので、三本で六円九十銭いただきます」
「六円九十銭ですって」
千二は丸木の方を振り返ってそう伝えました。すると、思いがけないことに、丸木が急にそわそわし出したのです。丸木はものすごく慌てていました。
彼は何度も自分の胸のあたりを叩いています。
どうやら、何か大変な困りごとが起きたようです。
「丸木さん、一体どうしたの?」
千二は丸木のそばへ駆け寄って、理由を尋ねました。
丸木は、いかつくて怖そうな見た目には似合わないほど、ひどく狼狽(うろた)えています。
その取り乱しぶりは、ますます激しくなるばかりでした。
「おい千二。お前、お金を持っていないか?」
「僕? 僕は、お金なんて全然持っていないよ。だって、魚釣りに行くために家を出てきたんだから、お金なんて一銭も持っているわけがないじゃないですか」
「そうか……。それはどうにも困ったぞ」
「丸木さん、お金を持っていないの? 落としちゃったの?」
「いや、買い物をするときにお金が必要だということは知っていたが、うっかり用意するのを忘れていたのだ。
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