初級翻訳・火星兵団 第82話

海野 十三

博士は地球人類のために力を貸そうとはしないのですから。
「今になって出ていくのか。
いよいよこの恩知らずめが!」
博士は口ぎたなく先生をののしりました。
先生はすっくと立ち上がりました。
一分間でもこんなところにいては、体がけがれてしまうと思ったからです。
ところが、その時、思いがけないことが起きました。
それは一体、何だったのでしょうか?
博士が、いきなり新田先生の手をぐっと握ったのです。
「あっ!」
新田先生はびっくりしました。
博士の本当の心がどうなっているのか、さっぱりわからなかったからです……。
その時、博士のくちびるが、先生の耳もとに近づきました。
「新田、だまって、わしについて来い!」
博士は、聞き取れないほどの小さな声で、先生の耳にささやきました。
「えっ!」
新田先生は自分の耳をうたがいました。
(新田、だまってついて来い!)
博士はそう言うと、さっさと先頭に立ちました。
新田先生は、博士の話し方の中に、何かいつもとは違うただならぬ気配を感じ取りました。
博士は、部屋のすみにある犬のくぐり戸のような丸い形の扉をあけて、次の部屋へはいずりこみました。
先生もその後を追いかけました。
はいりこんだ場所は、紫色の電灯がついていて、実に奇妙なところでした。
まるで、大きな鉄の管の中に入ったような感じがします。
どうしてこんなに変な場所ばかりがあるのでしょうか。
先生の前では、博士がごそごそと音を立てながら進んでいきます。
後から声をかけたくてしかたがなかったのですが、博士におこられては大変だと思い、先生はがまんしてあとをついていきました。
二メートルほど進んだところで、小さな部屋に出ました。
部屋というよりも、まるで大きな樽(たる)の中に入ったような感じです。
まるみをおびた壁は、にぶい金属のような光をはなっていました。
この部屋の中には、ベルトのついた腰かけと、天井からつり革のようなものがぶら下がっているだけで、ほかに何にもありませんでした。
博士が何をごそごそとやっているうちに、先生の後ろで「ぎいっ」と音がしました。
ふりかえって見ると、今はいり込んできた鉄の管の出口が、すっかりふさがれていました。
まったく不思議な部屋です。
先生には、博士が何を考えているのかまったくわかりませんでした。
「うむ、これで安心だ。
もう、大きな声を出してもいいよ」
博士の声は、いつもとは違って、とてもやさしく響きました。「博士、私をこんなところへ連れて来られて、何をなさろうというのですか」
さっそく、先生はたずねた。
「おお新田。
これからわしは、お前に、はじめて本心をうちあけるよ」
「えっ、本心?」
先生は驚いて博士の顔を見つめた。
本心を打明ける!――と、博士は言ったのである。
「どういうのが、博士の本心ですか」
と、新田先生は、せきこむようにして問いかえさずにはおられなかった。
そう言えば、さっきから博士の態度が、いつもとは、たいへん変っている。
何か重大なわけがあるのだ。
「のう、新田」
と、博士は両手をきちんと膝の上において語り出した。
「わしは、いよいよこれから火星兵団とたたかいをはじめるよ。
いや、お前の驚くのももっともだ。
わしは、いつも地球の人間のことを悪く言って、むしろ火星人の味方のようにさえ見えた。
これにはわけがあるのだ」
と、博士はそこで、これまでのことを思い出しながら、
「わしとて、お前と同じ地球の上で生まれた人間であることに変りはない。
だから地球人類が栄えるように、ねがうことについても人後に落ちない。
しかし、今までそのことを誰にも話をすることが出来なかったのだ。
なぜかと言うのに、火星人は絶えずわしの身のまわりに、目には見えないが、きびしい監視の網をはっているのだ。
火星人は、わしが何か言えば、かならずそれを聞いてしまっている。
だから、うっかりしたことは言えない」
「博士、それは、ほんとうですか。
私は、博士のおっしゃる火星のスパイを、見たことがありませんが……」
「今も言うとおり、お前などの目には見えないのだ。
わしにも見えない。
しかし、わしはそれを知っている。
火星人は、わしの声の特徴をよくしらべている。
わしが声を出すと、非常に精巧な検音受信機で、わしのかたるしゃべることを向こうで録音してしまうらしい。
何しろ火星人の智力と来たら、人間よりもすぐれているのだから、始末がわるい。
わしは火星人に、自分のしゃべることをけっして聞かれないために、苦心の結果、この防音室をつくった」
と、博士はまわりのかべを指さしながら、
「これだけ厚い金属のかべでとりかこみ、そうして、音も電気も磁気も、それから放射能も全然さえぎるような仕掛をつけてある。
だから、多分この中では、何をしゃべり、何を考えても、火星人に知れることはないだろう」
聞けば聞くほど、火星人の智力というものはおそろしい。
「何しろ、わしがこの前、火星からこっちへかえった当時から、火星人はわしの身のまわりを大警戒しているのだ。
それはつまり、わしが火星の秘密を地球人類につたえて、火星を攻める準備をするのじゃないかと、うたがっているのだ。
しかし正直な話が、地球人はとても火星人をうち破る智力を持っていない」
博士は残念そうに言った。
「だが、わしは火星兵団のことについては、いち早く地球人に知らせておいた。
地球人は、それに発憤して、何か新発明の兵器でもつくるかしらんと思ったが、やっぱり智力が足りなかった。
わしは、どうせそんなことじゃろうと思い、火星人には、絶対に気がつかれないように注意を払いつつ、或る研究をつづけていたのだ。
その研究は、やっと完成した。
これさえ使えば、火星兵団をうち破ることはそうむずかしいことではないと思う。
そこでわしは、お前だけに、ほんとうのことを、うちあける気になったのだ。
これまで、お前にも、わざとつらい目に合わせて気の毒だった。
今こそわしは、全力をあげて火星兵団とたたかうぞ」
「おお、博士!……」
新田先生は、意外また大意外の博士の話を聞いて、喜びのあまり、後の言葉が出なかった。
蟻田博士の様子が、すっかり変ってしまった。
博士は、今まで怪しい人物だとばかり思っていたが、本心を明かせば、実にえらい人物であった。
博士は、ほんとうに地球人類のことをしんぱいし、そうして火星人を追いはらうことを研究していたのだ。
「博士。
今度みごとに出来あがった博士の或る研究とは、どんなものですか。
ぜひ、私にも教えて下さい」
と、新田先生が言えば、博士はひげの中から口をもぐもぐと動かして、
「その研究のことは、ぜったい秘密にしておかなければならないのだが、ここだけの話として、お前にも話をしておこう」
と、博士は先生のそばに、すり寄って、
「いいかね。
わしは火星人の着ている殻をうちやぶる毒ガスを発明したのだ。
この毒ガスを十号ガスと名附けた。
十号ガスを火星人に浴びせかけると、火星人が着ているあのかたい殻が、見る見る中に蒸発して、影も形もなくなってしまうのだ」
それが十号ガスの偉力であった。
たいへんな力を持った毒ガスである。
新田先生はこれを聞いて舌を巻いた。

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