初級翻訳・犬物語 第1話

内田 魯庵

俺のことかい?
俺は昔、お万(まん)さんがひっくり返した油をペロペロとなめた、あの太郎どんの犬さ。
「その俺の身の上話が聞きたい」だって?
四つ足の俺に、人に話して聞かせるような大層な経歴なんてあるもんか。
だが、人間の小説家さまが俺の生い立ちを聞きたがるなんて、先生もよっぽどネタに困っているとみえるね。
よしよし、じゃあひとつ大きく景気よく語ってやろうか!

俺はここから十町(ちょう)ほど離れた、乞食(こじかい)横町の裏長屋の、そのまた路地の奥にあるゴミ捨て場の脇で生まれたんだ。
俺の母ちゃん犬は、俺を生むと間もなく、真っ暗な夜道でうたた寝していたおまわりさんに足を踏まれちゃってね。びっくりして「ワン!」と吠えたら、「狂犬だ!」なんて言われて、その場で殺されてしまったそうさ。
自分の不注意を棚に上げて、狂犬呼ばわりするなんてとんでもない話だ。
おまけに、大切な命をそんな適当に奪うなんて、人間は本当に自分勝手な「万物の霊長」さま্দねぇ。
人間が威張り返っているこの世の中じゃ、泣く子と地頭(じとう)には逆らえないって言うしどうしようもないけれど、もし天国に生まれたなら、一対一で裁判でも起こしてやるつもりさ。

生まれて二か月目くらいのときだったかな。
イタズラな腕白坊主に首に縄をくくりつけられて、病院の原っぱに引きずり回された挙句、古い井戸の中に放り込まれそうになったんだ。それを今の旦那さまが助けてくれたのさ。
おっぱいも満足に飲めないうちに母ちゃんとはお別れし、身寄りもなくてそりゃあ苦労したけれど、今の旦那さまにはもったいないくらいよくしてもらってさ。
「まるで円山応挙(まるやまおうきょ)の描いた子犬のようだ」って褒められて、それはもうかわいがってもらったんだ。
お坊ちゃまも、お嬢ちゃまも、筋金入りの大の犬好きだったから、このお屋敷に引き取られてからの俺は、本当に幸せ者だった。今年で八歳になるけれど、これまでに一度もひもじい思いをしたことなんてない。それどころか、一日に両で四升という、まるで鬼の牙みたいに立派で高級なお米をごちそうになっていたんだ。
恥ずかしながら、いまだに外国の安いお米(南京米)なんて口に入れたことがない、正真正銘のボンボン犬さ。

俺の血統かい?
俺は普通の地犬(じいぬ)さ。
ほかの血が混ざっていない、純粋な日本犬だよ。
耳が垂れて、尻尾が下がって、目が青い、毛唐(けとう)の外国犬がやってきてからというもの、やつらは地犬の俺たちのことを「バカだ」みたいに言うけれど、恥ずかしながら俺たちは、神の国・日本の魂(大和魂)を受け継いだ、由緒正しいお犬様さ。
西洋かぶれの顔をした雑犬(ざっしゅ)なんかと一緒にされては困るね、ヘン、そもそも血統が違うのさ。

もともと俺には納得がいかないことがある。それは、ワケもわからず西洋の犬をやたらと珍しがる連中のことさ。
せっかくだから、この機会にちょっと物申して聞かせてやろう。
「犬の先祖はオオカミだ」なんてよく言われるけれど、あれは間違いさ。本当は「ドール」っていう山犬の一種なんだ。
今でもイギリス領インドの西の端っこ、ミドナボールからシャマルのあたりに住んでいるんだよ。
世界の文明がすべてインドから伝わったように、犬もやっぱりインドを母国として、四方へ広がっていったのさ。
もっとも、エジプトでは猫と同じように犬を大事にして、川の神様としてお祭りしていたらしい。ちょうどナイル川が氾濫するころにシリウス星が見えるから、この星を「犬星」と呼んで、犬は星の精だと言っていたそうだな。
アッシリアでも昔から犬を大切にしていて、今の「マスティフ」だの「グレイハウンド」だのといった犬たちがいたらしい。まあ、そんな話はさておき、私たち犬の仲間はインドの「ドール」から進化したんだってことは、学者たちもみんな一致して言っている説なんだ。
オオカミやジャッカルから発達したなんて嘘っぱちさ。俺たち同類の仲間をバカにするにもほどがあるね。

ところで、この「ドール」という連中は、人間をものすごく嫌っていて、決して姿を見せないそうなんだけど、とにかくすばしっこくて活発で、狩りがものすごく上手なんだ。
ヒョウみたいに木に登るやつや、ゾウみたいにものすごく体が大きいやつのほかは、何でも獲物にしてしまう。
あのトラでさえ、「ドール」の群れに会うとタジタジになるんだ。
もちろん一匹と一匹で戦ったらトラにはかなわないけれど、「ドール」の旦那たちはいつも大群を引き連れて一斉に襲いかかるから、たいていの猛獣はあっという間にやられてしまうのさ。
なかなかに勇敢で命がけの戦いをする、大将軍様といったところさね。
ちょっと自分たちのことを自慢しすぎかもしれないけれど、猛獣狩りの名人と言ったら、やっぱり「ドール」先生をおいてほかにいないだろう。
その見事な武勇の振る舞いは、私たち犬一族の先祖にふさわしいものだと言えるはずさ。

さて、犬一族の中でも、この「ドール」君の面影を一番よく受け継いでいるのは、ほかならぬ我ら日本犬だよ。
耳の形から尻尾の具合、顔立ちにいたるまで、そっくりそのまま似ているんだ。
とくに、ものすごい勇気があって、猛獣なんか少しも恐れない勇敢な気性が、もうそのまま表に出ている。
おそらく、「ドール」君の正当な血を受け継ぐ子孫だと、俺は固く信じているよ。

日本犬だけじゃない。日本犬に似ている連中はみんな、並外れて強くて勇敢なんだ。
チベット犬、エスキモー犬、シベリア犬……俺たちの兄弟分は、どいつもこいつも力が強くて勇気があって、手強い豪傑ばかりさ。
ただ、みんな未開の国で野生のまま育ったものだから、歴史に大きな功績を残すほどには進歩しなかったけれど、その性質がものすごく賢くて勇敢だということは、学者たちにも認められているんだ。
エスキモー犬が雪の中をそり車に引かれて何日も歩き通しても少しも疲れないことや、シベリア犬が旅人を守るためにオオカミなどの猛獣を追い払う勇気は、本当に見事なものさ。
シベリアでは犬のことを「エンヌ」と言うそうで、言葉の響きもちょっと似ているんだよね。
もしかしたら日本犬と同じ仲間なんじゃないかという説もあるらしくて、いや、それもなんだか本当のありそうな話だよねぇ。

それに、俺たちにはなんたって、二千五百年の歴史がある国に生まれたという誇りがある。エスキモーやシベリアの連中とは違って、立派な歴史と由来があるのさ。
桓武天皇(かんむてんのう)の九代目の子孫だなんて並べ立てたら、まるで劇のセリフみたいですごくおかしな話かもしれないけれど、歴代の天皇陛下からとても可愛がられて、恐れ多くも宮中でおそば近くに仕えた例なんて、君たちも忠義を尽くす日本人だからよく知っているだろう。
もちろん、昔の「翁丸(おきなまる)」みたいにイタズラをして、天皇のお怒りにふれてしまった奴もいるにはいるけれど、私たち犬は、だいたいにおいて君主の深いご寵愛をありがたく受けてきた方なのさ。歴史上で一番の愛犬家といえば、なんといっても北条高時(ほうじょうたかとき)さまだ。

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