初級翻訳・神州天馬侠 第2話

吉川 英治

しかし、長老の快川国師は、故信玄の恩にかんじて、断乎として、織田の要求をつっぱねたうえに、ひそかに三人を逃がしてしまった。
織田の間者は、夜となく昼となく、恵林寺の内外をうかがっていた。
ところが、はからずも、勝頼の末子伊那丸が、まだ快川のふところにかくまわれているという事実をかぎつけて、いちはやく本陣へ急報したため、すわ、それ逃がしてはと、二千の軍兵は砂塵をまいて、いま――すでにこの寺をさして押しよせてきつつあるのだ。
快川は、それと知っていながら、ゆったりと、朱の椅子から立ちもせずに、三人の武将をながめた。
「また、織田どのからのお使者ですかな」
と、しずかにいった。
「知れたことだ」となかのひとりが一歩すすんで、
「国師ッ、この寺内に信玄の孫、伊那丸をかくまっているというたしかな訴人があった。
縄をうってさしだせばよし、さもなくば、寺もろとも、焼きつくして、みな殺しにせよ、という厳命であるぞ。
胆をすえて返辞をせい」
「返辞はない。
ふところにはいった窮鳥をむごい猟師の手にわたすわけにはゆかぬ」
と快川のこえはすんでいた。
「よしッ」
「おぼえておれ」と三人の武将は荒々しくひッ返した。
そのうしろ姿を見おくると、快川ははじめて、椅子をはなれ、
「左文次どの、おでなさい」
と合図をしたうえ、さらに奥へむかって、声をつづけた。
「忍剣! 忍剣!」
呼ぶよりはやく、おうと、そこへあらわれた骨たくましいひとりの若僧がある。
若僧は、白綸子にむらさきの袴をつけた十四、五歳の伊那丸を、そこへつれてきて、ひざまずいた。
「この寺へもいよいよ最後の時がきた。
お傅役のそちは一命にかえても、若君を安らかな地へ、お落としもうしあげねばならぬ」
「はッ」
と、忍剣は奥へとってかえして、鉄の禅杖をこわきにかかえてきた。
背には左文次がもたらした武田家の宝物、御旗楯無の櫃をせおって、うら庭づたいに、扇山へとよじのぼっていった。
ワーッという鬨の声は、もう山門ちかくまで聞えてきた。
寺内は、本堂といわず、廻廊といわずうろたえさわぐ人々の声でたちまち修羅となった。
白羽黒羽の矢は、疾風のように、バラバラと、庭さきや本堂の障子襖へおちてきた。
「さわぐな、うろたえるな! 大衆は山門におのぼりめされ。
わしについて、楼門の上へのぼるがよい」
と快川は、伊那丸の落ちたのを見とどけてから、やおら、払子を衣の袖にいだきながら、恵林寺の楼門へしずかにのぼっていった。
「それ、長老と、ご最期をともにしろ――」
つづいて、一山の僧侶たちは、幼い侍童のものまで、楼門の上にひしひしとつめのぼった。
寄手の軍兵は、山門の下へどッとよせてきて、
「一山の者どもは、みな山門へのぼったぞ、下から焼きころして、のちの者の、見せしめとしてくれよう」
と、うずたかく枯れ草をつんで、ぱッと火をはなった。みるみるうちに、渦巻く煙が楼門をすっぽりと包み込み、真っ赤な炎が何百、何千もの火の龍となって、メラメラと激しく燃え上がりました。
楼の上の大衆たちは、お互いに抱き合いながら、熱さと苦しさのあまり叫び声をあげて床に倒れ伏しました。
その中にあって、一人生まれながらの落ち着きを保っていた快川和尚だけは、椅子に腰かけたままで、眉一本動かさず、
「なんの、心さえ静めれば、火さえもおのずから涼しい――」
と、あの有名な言葉を微笑みながら唱えながら、その全身を猛火に包ませていたのでした。

二

「おお! 伊那丸さま。
あちらをご覧になってくださいませ。
すさまじい火の手が上がっておりますぞ」
源次郎岳の山道まで落ち延びてきた忍剣は、はるかに見える火の海を振り返りながら、目に涙を浮かべました。
「国師さまも、あの炎の底でご最期を迎えられたのだろうか。忍剣よ、私は悲しい……」
伊那丸は、遠くの炎に向かってそっと手を合わせました。
空を焦がす炎は、彼のひとみに、一生忘れることができないほどの鮮烈な記憶として焼きついたのです。

すると、それは突然のことでした。
いきなり耳をつんざくような陣太鼓や呼子笛の音が、鋭く頭の上で鳴り響いたかと思うと、向こうの岩陰やこちらの谷間から、槍や刀をきらめかせながら躍り出てきた数十人の伏兵がいました。
それは徳川方の手のもので、酒井の黒具足組の兵士たちのようでした。

忍剣は、素早く伊那丸を岩陰にかくれました。そして自分は鉄の禅杖をわきにしっかりと構え、敵を待ち受けました。
「それっ、武田の落人にちがいない。討てっ!」
と呼子笛を吹いた黒具足の部将が、ひらりと岩の上から飛び降りて号令をかけました。
下からは槍を並べた一隊が迫り、その真っ先にいた一人は、流れ星のごとく忍剣の脇腹を狙って槍を突き出しました。
「おうっ!」と力を振り絞った忍剣の手から伸びた四尺(約1.2メートル)余りの鉄杖が、パシリーッと音を立てて、敵の槍の穂先を二つに折り、空高くへと弾き飛ばしました。
「追い払え!」と呼子笛を吹いた部将がまた怒鳴りました。
バラバラと乱れかかるススキの穂のような槍の群れも、忍剣が自由自在に振り回す鉄杖の敵ではありません。当たったが最後、わらや棒切れのように吹き飛ばされ、見る間に七人、十人と、鮮血を散らしながら岩角から滑り落ちていきます。

「ワーッ」という敵の突撃の歓声、かかれ、かかれと怒鳴り散らす叫び声。
すさまじい戦いの波は、押し寄せては引く返し、山全体を血しぶきで染め上げていきます。
たかが一人の若いお坊さんにすぎない忍剣のこの圧倒的な戦いぶりに、百戦錬磨の黒具足組さえもが肝を冷やしました。

――知る人ぞ知る。
忍剣はもともと、今川義元の部下であり、「海道一の武将」といわれた加賀見能登守(かがみ のとのかみ)その人の忘れ形見なのです。
彼の生まれながらの怪力は、亡き父・能登守をも凌ぐほどで、幼い頃から快川和尚のもとでその度胸を鍛え上げられ、さらに天性の武勇と、血と涙を若い体にみなぎらせた熱血漢なのです。
あの人を見る目が優れている快川和尚が、寺中の数ある者の中からわざわざ選び抜いて、武田伊那丸と「御旗楯無(みはたてなし)」の宝物を託したのは、忍剣にそれだけの並外れた人物としての器量を見抜いていたからこそにほかならないのです。

新羅三郎(源義光)以来二十六代を経て、四方の国々にその武威を輝かせた武田家の領土も、今や織田と徳川の軍馬によって徹底的に踏みにじられ、すっかり焦土となってしまいました。
しかも、その武田の血を受け継ぐ者は、この世の中にこの伊那丸さまお一人だけとなってしまったのです。
すべてが焼き払われたあとに、たった一粒だけ残された大切な種(み)です。
このたった一粒の種から、再び甲斐源氏の花が美しく咲くか咲かないか、忍剣にかかる責任はあまりにも重大でした。
また、伊那丸の背負う宿命も、決して生やさしいものではありません。
時はまさに戦国時代。
残虐非道をもいとも簡単に行う天下の武将たちは、このたった一粒の種子さえも芽を出させまいと、その前途にあらゆる卑劣な罠や魔手を伸ばしてくるに違いありません。

すでに、その第一の危難が目の前に突然降りかかってきたのです。

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