初級翻訳・神州天馬侠 第9話

吉川 英治

もしご存じなら、どうか教えてほしい」
「伊那丸さまは、お坊さまと一緒に斬り込んできたあの六部の方が、ものすごい早業でどこかへ連れ去ってしまいました。
あの六部が善人なのか悪人なのか、わたくしにも分かりません。
それをあなたにお知らせしたくて、夜が明けるのを待っていたのです」
「なにっ、ではやはり、あの六部に一杯食わされたか!
おい、その六部はどちらの方角へ行ったか、少しでも見当はつかないか?」
「わたくしは、その前に富士川を下って、東海道から京都へ抜けるための関所札を手に入れておきましたが、その道へ向かったのかどうかは分かりませぬ」
「しまった……!」
 忍剣は、悔しそうに大きく息をもらした。
そのとき、咲耶子は急に顔色を変えて、せき込むように言った。
「あぁ、父の手下どもが、わたくしを探してあちらからやって来るようです!
どうぞ、一刻も早くここをお立ちになってください。
わたくしは山へ帰りますが、陰ながら、伊那丸さまの行く末を祈っております」
「では、これでお別れだな。
拙僧だって、のんびりと落ち着いているわけにはいかない身なのだ」
ふたたび鉄杖を手に握りしめた忍剣は、別れの挨拶を告げると、恨めしい思いの残る裾野をあとにして、どこへともなく草むらの中に身を隠して去っていった。
――咲耶子も、しばらくの間その場に立ち尽くし、忍剣の背中を見送っていた。

二

 浜松の城下は、東海道随一の名将である徳川家康が治める大きな町だ。
その浜松では、ちょうどこの七日間のあいだ、男山八幡宮(おとこやまはちまんぐう)のお祭りが行われていたため、毎夜お城のまわりは大変な賑わいを見せていた。
「どうですかい、鎧屋さん、まだ商品は売れませんかね」
 その八幡様の玉垣のそばにずらりと並んだ夜店の、燈籠(とうろう)を売る男が、隣の店の人に話しかけた。
「売れませんよ……」今日で六日も店に出していますが、一向に売れません」
 そう答えたのは十八、九ほどの若者で、たった一組の鎧を空き箱の上にかざり、自分のそばには一本の朱柄の槍を立てかけて、ぼんやりとそこに腰かけていた。
「おまえさんの燈籠のほうは、女子供が相手だから、さだめし毎日たくさんの売り上げがあったろうよ」
「とんでもない。あの鬼玄蕃(おにげんば)というご城内の乱暴者の侍のせいで、今年はすっかり商売が上がったりです」
「昨晩も私が帰ったあとで、また誰かがあいつらに斬り殺されたって話だが、本当かね」
「そんなことは珍しいことでも何でもありませんよ。
店をめちゃめちゃに踏みつぶされたり、手足の自由を奪われたりしたかわいそうな人が、いったい何人いることか知れやしません。
まったく、弱い者は生きていられない世の中ですね」
 そう言っている口のそばから、突然「ワーッ」という叫び声が向こうから上がり、今までお祭りの賑やかな世界そのものであった町の灯りが、次々とバタバタと消されていった。
燈籠売りは飛び跳ねるように立ち上がり、顔を真っ青にした。
「大変だ、大変だ! 鎧屋さん、早く逃げたほうがいいぜ、鬼玄蕃がやってきやがったにちがいない」
 まるで急ににわか雨でも降ってきたかのように、あたりの商人たちも一緒になって大慌てで逃げ惑ったが、あの若者だけは腰を上げることもせず、どこかでのんびりとした顔をしていた。
案の定、そこへ旋風のように暴れ回ってきた四、五人の侍たちが現れた。
なかでも一際すぐれて強そうな星川玄蕃(ほしかわげんば)は、つかつかと鎧屋のそばへ歩み寄ってきた。
泥酔したほかの侍たちも、これはいいおもちゃができたという顔をして、そこを取り囲んだ。
「おい、町人。この槍はいくらだ」
 と、玄蕃はいきなり若者のそばにあった朱柄の槍をつかんだ。
「それは売り物じゃありません」
 若者はにべもなく、ひったくるように槍を取り返すと、あいかわらず無神経にすましこんでいた。
「けしからんやつだ。売り物ではないものを、なぜ店の前にさらしておく。
こいつ、客をだます詐欺師だな」
「槍はわしの持ち物です。
どこへ行くにしたって、この槍を手からはなさぬ性質(たち)なんだからしかたがない」
「では、この鎧が売り物なのか。
黒皮胴(くろかわどう)、萌黄縅(もえぎおどし)、なかなかりっぱなものだが、いったいこれでいくらで売るのだ」
「それも本当は売りたくない品ですが、おっかさんが病気なので、薬代に困ってやむなく手放すんです。
酔っぱらったみなさまがそんなに騒いでいると、せっかくのお客も逃げてしまいます。
早くあっちへ行ってください」
「無愛想なやつだ。買ってやるから値段を聞いているんだろうが」
「金五十枚、びた一文たりともまかりません。
はい」
「高いわ! 銅銭五十枚にしておけ、それなら買ってやる」
「いけません、まっぴらごめんです」
「ふらちなやつだ!
いったい誰がこんなボロ鎧に、金五十枚も出すやつがあるか、バカめ!」
 玄蕃が土足であげた足で蹴り飛ばしたため、鎧はガラガラと音を立てて崩れ、土まみれになってしまった。
こんな乱暴は、平和な世の中にはめったに見られないものだが、日暮れから夜明けまで血や白刃のなかに慣れ親しんだ戦国武士のなかの悪い者には、町人や百姓をまるで蛆虫(うじむし)のようにしか思わず、隙あらばその傲慢な武力をもって威張り散らす者が多かったのだ。
「詐欺師め!」
 ほかの武士たちも口を合わせてののしった上に、鎧を足で踏みちらし、どっと笑いながら立ち去ろうとしたその時、若者の眉がピリッと跳ね上がった。
――と思う間もなく、あの朱柄の槍は、いつの間にかその脇腹にしっかりと抱え込まれていた。
「待て!」
「なんだと!」と振り返りざま、刀の柄(つか)へ手をかけた五人の、恐ろしい目つき。
大変なことになったと、やじ馬たちは潮が引くように大騒ぎして離れていった。
――と、その群集の中から、まばたきもせずにその朱柄の槍先をじっと見つめている、白衣の六部(ろくぶ)と、一人の貴公子ふうの少年の姿があった。
玉垣(たまがき)を照らしている春日燈籠(かすがとうろう)の灯影(とかげ)によく見ると、それこそは、裾野の危地を切り抜けて行方をくらましていた木隠龍太郎(こがくれりゅうたろう)と、武田伊那丸(たけだいなまる)の二人であった。
六部の龍太郎は、いったい何の目的があって伊那丸を奪い取ってきたのか分からないが、ここに立った二人の様子から察すると、いつの間にか伊那丸も彼の行動を納得しており、龍太郎のこともまるで主君のように敬っているようだ。
しかしそれにしても、武田の残党を根だやしにするつもりである敵の本城の地に、どうしてこれほど堂々と姿をあらわしているのだろうか。なんと大胆不敵な行動であろう。
今にももし、徳川家の目付役(めつけやく)や、酒井黒具足組(さかいくろぐそくぐみ)の目にでもふれようものなら最後、二人の身に一大事が降りかかるのではないか?
 それはそれとして、一方の鎧売りの若者は、すでにその槍を穂が短くなるようにぐっと引き絞り、ジリジリと一寸ずつ、五人の武士たちへ恐るべき気迫で迫っていく――。
「小僧、気が狂ったか!」と玄蕃は怒鳴りつけた。

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