初級翻訳・神州天馬侠 第21話

吉川 英治

名も知れぬ荒くれどもに辱められるくらいなら、いっそこの海の底に……」

夜は冷たい磯の岩かげに組んだ小屋で眠る。
だが、そのあいだでさえも、鬼神(羅刹)のような手下たちが交代で見張りをしているのだ。
「そうだ、あの親船が戻ってきたら、もう最期の運命だ。逃げるならいましかない!」
ぐっと心に誓い、頭を持ち上げてみると、もう夜明けに近いころらしく、寝ずの番をしている男も頬杖をついて居眠りをしている。
「むっ!」
跳ね起きるよりも早く、昼間に見ておいた小舟のところへ向かって走り出した。

ところが来てみると、その小舟は、毎夜あいつらが用心のためにと、十間(約18メートル)も陸の上へ引き揚げてあったのだ。
「えい、これくらいの重さ!」
伊那丸は金剛力をしぼって波のほうへ綱を引いてみたが、荒磯のゴロタ石が引っかかって、とても動きそうにない。
――ああ、こんな時に、忍剣ほどの力が自分に半分でもあれば……。そんな無駄な愚痴が彼の胸に浮かんだことだろう。
「野郎っ、何をする気だ!」
我を忘れて舟を押している伊那丸のうしろから、松の木のように太い腕が、グッとその喉輪を締め上げた。
「見つかったか!」伊那丸は歯ぎしりをした。
「この野郎、逃げる気だな!」
喉を締められたまま、伊那丸は「タタタタタ」と五、六歩あとへ引き戻された。
「もうこれまでだ」と、脇差の柄に手をかけて、やッと身をねじりながら切っ先を浴びせた。
「あっ――き、斬りやがったな!」
たとたん、目を覚ましたほかの四、五人の手下たちも、「それっ」と櫂(かい)や太刀を振り回し、わめき叫びながら襲いかかってきたが、伊那丸もすでに捨て身だった。
小刀の技の限りを尽くして斬り回った。
しかし、相手は何といっても猛々しく命知らずの連中である。もともと体力が衰えている伊那丸は、無念にもじりじりと追い詰められていった。

五

その時だった。
空と波の水平線から、こちらの島めがけて、まるで矢のように飛んできた一羽の黒い大鷲。
パッと波を打っては水煙をあげ、空に舞っては雲に隠れた。
――やがてその素晴らしい雄姿を目のあたりに見せつけると、伊那丸と五人の男の乱闘のなかへと、サッと二、三度、地面をかすめるように飛び回った。
「わーっ、たまらねえ!」
残らずの者たちが、その巨大な翼の起こす風にあおられて倒されてしまった。
もちろん、伊那丸も四、五間(約8〜9メートル)ほども吹き飛ばされてしまった。
嵐なのか、それとも旋風なのか、伊那丸には何が起きたのか意識する余裕もなかった。
ただ「五人の敵を倒す!」その一念だけしかなかったので、立ち上がるより早く、そばに倒れていたひとりを斬り伏せた。
黒い大鷲は、今も伊那丸の頭上を離れず、ぐるぐると回り続けている。砂礫(されき)が吹き飛ばされ、その翼風にあおられて、残る四人の手下どももめちゃくちゃに吹き飛ばされ、そのまま気を失ってしまいました。
――ふと、伊那丸は、その時になってはじめて、自分がとてつもなく不思議な方法で命びろいをしたことに気がつきました。
空を見上げると、おお! それこそは、恵林寺にいたころ、いつもエサをやって大切に可愛がっていたあのクロではないですか!
「おっ! クロだ、クロだ!」
伊那丸が血まみれの刀を振り上げながら、狂うほどの喜びの声を空に向かって投げつけると、クロは静かに舞い降りてきて、小舟の端っこにそっと翼を休めました。
「間違いない。
やっぱりクロだったんだ。
それにしても、どうやってあの頑丈な鎖を切ってきたんだろう?」
ふと見ると、クロの足には油紙をこより状にして巻きつけられていました。
伊那丸はいよいよ不思議な気持ちに打たれながら、急いでそれをほどいて広げてみると、なつかしい忍剣(にんけん)の文字が目に飛び込んできました!

「若さま、この手紙が、あなたさまのお目にふれましたら、若さまのお返事の手紙も、かならず私の手にとどきましょう。
忍剣いのちのあらんかぎりは、ふたたびお目にかからずにはおりません。
甲斐の山にて。」

ハラハラと、とめどなくあふれる涙をその数行の文字の上にふり落としつつ、その場に立ちすくんでいた伊那丸でしたが、ハッと我に返って急いで小屋へ引き返し、今の自分の窮状をかんたんに書きつけて、再びもどってきました。
夜はすっかり白みはじめ、八重の汐路(しおじ)の向こうがほのぼのと明けそめてきました。
見れば、クロはよほどお腹が空いていたのか、五人の死骸のまわりを飛びまわって、生々しい血に舌なめずりをしていました。
伊那丸は同じように、自分からの返事を鷲の片足にしっかりと結びつけました。それがちょうど終わった時、伊那丸の目のまえに、さらなる呪いの悪魔が悠々とその影を見せてきたのです。
八幡船の親船がもどってきたのです。
もうすぐ目の前――島から数町の波間の近くまで迫っていました。
「いよいよこれが最期の運命だな。
クロよ! わしの命の行方はお前の翼にすっかり預けたぞ!」
じっと座って死を待つなんて愚かなことだと、伊那丸は鷲の背中に抱きつくようにして身をのせました。
思うさま人間の血をすすったクロは、大きな両の翼でバサッと大地を打ったかと思うと、伊那丸の体を軽々とのせたまま、天空高くへと力強く舞いあがりました。
(笛ふく咲耶子)

一

「あれ、あれ、あれはいりゃなんだ?」
「おお、島から飛び立ったあやしい魔鳥だぞ」
「鷲だっ!
真っ黒い大鷲だ!」
白波をかき分けて、いっぱいに帆を張って近づいてきた八幡船の上では、多くの手下どもが夜明けの空を見上げて、波の音のようにどよめき、驚き叫んでいました。
その騒ぎを聞きつけて、船部屋から表に出てきた龍巻九郎右衛門(たつまきくろえもん)は、ギラギラと照りかえす朝日に小手をかざしながら、しばらく虚空を旋回している大鷲の影をじっと見つめていましたが、
「ややっ!」と、にわかに顔色を変え、すぐに、
「あの鷲を射落とせっ、早く早く!
遠くへ逃げちまわないうちにだ!」
と、荒々しく手下どもを怒鳴りつけました。
おうっ! 手下どもは武器倉へ嵐のように殺到し、弓や鉄砲を手にするよりも早く宙めがけて火ぶたを切り、矢つぎばやに鋭い矢の嵐を放ちましたが、鷲は悠々と遠く近く飛び回り、まるで人間たちの攻撃の弱さをあざ笑っているかのようでした。
「民蔵(みんぞう)、民蔵! 新入りの民蔵はどこにいやがるっ!」
龍巻が地団駄を踏んでこう叫んだとき、船底からかけあがってきたのは、民蔵と名前を変え、堺から手下として乗り込んでいた、あの小幡民部(おばたみんぶ)でした。
「お頭、お呼びになりましたかい?」
「どこへもぐり込んでやがったんだ。てめえにちょうどいい腕だめしを言い付ける。
あの大鷲の背中に、人間がしっかり抱きついているんだ。

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