初級翻訳・神州天馬侠 第34話

吉川 英治

「老いぼれ」
 すかさずその襟がみをムズとつかんだ武芸者は、その時ガサガサと丘の下からかけあがってくる木隠龍太郎の姿をみとめた。
「あいや、それへおいであるのは、武田伊那丸君のお身内でござらぬか」
「オオ!」
 びっくりして、高き岩頭をふりあおいだ龍太郎は、見なれぬ武芸者のことばをあやしみながら、
「いかにも、伊那丸さまのお傅人(もりびと)、木隠龍太郎という者でござるが、もしや、貴殿は、このなかへ逃げこんだ血まみれなる法師武者のすがたをお見かけではなかったか」
「その入道なれば、わざわざこれまでお登りなさるまでもないこと」
「や! では、そこにおさえているやつが?」
「オオ、山県蔦之助が伊那丸君へ、初見参のごあいさつがわりに、ただいまそれへおとどけもうすでござろう」
 いうかと思えば、若き武芸者――それはかの近江の住人山県蔦之助――カラリと左手の弓を投げすてて、梅雪入道の体に双手をかけ、なんの苦もなくゆらッとばかり目の上にさしあげて、
「それ、お受けあれや龍太郎どの!」声と一しょに梅雪の体を、丘の下へ、投げとばしてきた。

二

 スポーンと紅葉の茂りへおちた梅雪のからだは、あたかも木の葉のごとくころがりだして、土とともに、ゴロゴロと熊笹の崖をころがってきた。
龍太郎は、心得たりと引ッつかんで、さらに上なる人をあおぎながら、
「山県蔦之助どのとやら、まことにかたじけのうござった。
そもいかなるお人かぞんじませぬが、おことばに甘えて初見参のお引出もの、たしかにちょうだいつかまつった。
お礼は伊那丸さまのご前にまいったうえにて」
「拙者もすぐあとよりつづきますゆえ、なにぶん、君へのお引合わせを」
「委細承知、はや、まいられい!」
 ヘトヘトになった梅雪を小わきにかかえた龍太郎は、さっき乗りすててきた駒のところへと、いっさんにかけおりていった。
と、同時に、上からも身軽にヒラリヒラリと飛びおりてきた蔦之助。
龍太郎は、黒鹿毛にまたがって、鞍壺のわきへ、梅雪をひッつるし、一鞭くれて走りだすと、山県蔦之助も、遅れじものと、つづいていく。
一ぽう、白旗の宮の前では、穴山の郎党たちは、すでにひとりとして影を見せなかった。
そこには凱歌をあげた忍剣、小文治、民部、咲耶子などが、あらためて、伊那丸を宮の階段に腰かけさせ、無事をよろこんでほッと一息ついていた。
人々のすがたはみな、紅葉を浴びたように、点々の血汐を染めていた。
勇壮といわんか凄美といわんか、あらわすべきことばもない。
なかでも忍剣は、疲れたさまもなく、なお、綽々(しゃくしゃく)たる余裕を禅杖に見せながら、
「木ッ葉武者はどうでもよいが、当の敵たる穴山入道を討ちもらしたのは、かえすがえすもざんねんであった。
いったいきゃつはどこにうせたか」
「たしかにここで拙者が一太刀くれたと思いましたけれど」
 と小幡民部も、無念なていに見えたけれど、伊那丸はあえて、もとめよともいわず、かえって、みなが気のつかぬところに注意をあたえた。
「それはとにかく龍太郎のすがたが、このなかに見えぬようであるが、どこぞで、傷手でもうけているのではあるまいか」
「お、いかにも龍太郎どのが見えぬ」
 一同は入りみだれて、にわかにあたりをたずねだした。
すると、咲耶子は耳ざとく駒の蹄を聞きつけて、
「みなさまみなさま。
あなたからくるおかたこそ龍太郎さまにそういござりませぬ。
オオ、なにやら鞍わきにひッつるして、みるみるうちにこれへまいります」
「や! ひッさげたるは、たしかに人」
「穴山梅雪?」
「オオ、梅雪をつるしてきた」
「龍太郎どの手柄じゃ、でかしたり、さすがは木隠」
 口々にさけびながらかれのすがたを迎えさわぐなかにも、忍剣は、ほとんど児童のように狂喜して、あおぐように手をふりながらおどりあがっている――と見るまに、それにもどってきた龍太郎は、どんと一同のなかへ梅雪をほうりやって、手綱さばきもあざやかに鞍の上から飛びおりた。
「それッ」
 待ちかまえていた一同の腕は、期せずして、梅雪のからだにのびる。いまや断る元気すらない様子で、穴山梅雪のみにくい姿は、ズルズルと伊那丸のまえへ引っ張りだされてきました。
民部は、そのえりかみをつかみ、「入道ッ、顔を上げろ!」といい放ちました。
「むウ……ム、くやしいッ!」
穴山梅雪は、眉間(みけん)を一太刀(ひとたち)斬られているうえに、ここへ来るまでに何度も投げ飛ばされたり、馬の鞍(くら)の脇に縛りつけられたりしたせいで、この世のものとは思えないほど青白い顔をしていました。

三

「待て民部、手荒なまねはよせ」
いちばん恨みを持っているはずの伊な丸が、思いがけないことにこう言ったので、民部も忍剣も、びっくりしたような顔をしました。
伊那丸はしずかに階段を下り、梅雪入道の手をとって、お宮の木の廊下へと招き上げ、礼儀正しくこう言いました。
「おい、梅雪。いまこそ悪い夢からさめたことだろう。わしのような子どもでさえ、甲斐(かい)の源氏(げんじ)をふたたび盛り上げようと、ひたすら心をくだいているというのに、どうして――武田家の「二十四将(にじゅうよんしょう)」の一人に数えられ、武田家の血を引くあなたが、おさまりきらない欲のために、こんなみにくい最期を迎えることになったのか。その理由がわからない。それでも本当に甲斐の武士(もののふ)かと思うと、情けなくて涙が出てくる。さあ! この上はいさぎよく自分で命を絶ち、せめて最後のときだけでも心を清くして、いつまでも未練を残したと言われないようにするのだ」
「ええ、うるさいッ!」
梅雪は気が狂ったように首をふって、
「わしに自害しろだと? ばかなことを言うな!」
「なんだと! どんなにもがこうと、運が尽きたいま、逃げ道などないはずだが」
「逃げられようが逃げられまいが、お前たちの知ったことか!
おい、伊那丸。血筋からいえばお前の父・勝頼(かつより)のいとこであり、年の順からいっても目上のこの梅雪に、刃(やいば)を向けるつもりか。それこそ人としての大罪だぞ!」
「だからこそこうして礼儀を尽くして迎え、自害をすすめ、武士の本分を果たさせようとしているというのに、なんと未練がましい言葉なのだ」
「いや、もうお前の言うことなど聞く耳をもたん!」
「では、どうあっても自分で命を絶つつもりはないのだな?」
「言うまでもない。わしは貴様らの命令で死ぬわけにはいかない。死ぬのはいやだ!」
「ああ、救いようのない臆病者め……」
伊那丸は空を仰いで大きなため息をついたあと、
「この上はしかたがない……」とつぶやきました。それを聞いた梅雪は、伊那丸の命令が下るよりも先にとびかかり、突然自分の鎧通し(よろいどおし)を引き抜き、
「小童(こわっぱ)め! おれをあの世への道連れにしてやる!」
と、ものすごい勢いで飛びかかり、伊那丸の胸板へ突き刺そうとしました。しかし、伊那丸はひらりとかわし、キリッとした声で一喝しました。
「悪魔め!」
パッと足もとを払うと、梅雪の体は宙に浮き、廊下の上からきれいな円を描くように下へ落とされました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました