「人非人(にんぴにん)め、斬ってしまえッ!」
伊那丸の命令が下ると同時に、
「はッ!」
とその声に応えて飛び出したのは、巽小文治(たつみこぶんじ)の赤い柄の槍でした。梅雪の体がまだ地面につかないうちにサッと突き上げ、ブーンと一振りして地面にたたき落としました。
そこへさらに木隠龍太郎(こがくれりゅうたろう)の一刀が振り下ろされ、梅雪の首はゴロリと前に落ちました。
「それでよし。その死骸(しがい)は湖の底へ沈めよ」
廊下に立った伊那丸は、しずかに目を閉じてそう言いました。
ちょうどその時、山県蔦之助(やまがたつたのすけ)も駆けつけてきました。
改めて伊那丸に自分の忠義を誓い、仲間たちとも紹介されて、一団の味方に加わることになりました。
ポツリ、ポツリと、大粒の雨が落ちてきました。
空を見上げると、ちぎれた雲が南へ南へと恐ろしい速さで飛んでいき、たちまち灰色の湖の水面が、ピカリ、ピカリと稲妻(いなずま)の光で照らされます。
あたり一面が真っ白な霧のカーテンに包まれ、はるか遠くの山のふもとからすごい勢いで近づいてくると見る間に、野原を消し、長い渚(なぎさ)を消し、湖を消して、あっという間に目の前までやってきました。
そして、思う間もないうちに、ザザザザザザザアーッと、まるで大きな盆をひっくり返したような、まさに文字通りの大雨が襲ってきました。
めでたく穴山梅雪を討ちとりはしたものの、離れ離れになっていた間の積もる話もあるし、これからの作戦を相談するのにもちょうどいい。この激しい雨は絶好の雨宿りになるだろうと、一同は白旗の宮の荒れた拝殿(はいでん)に入り、伊那丸を中心にしばらく昔話やこれからの話に花を咲かせました。
自然城・小太郎山(こたろうやま)
一
武蔵の国(むさしのくに)の高尾の峰(たかおのみね)から、京都の鞍馬山(くらまやま)の僧正谷(そうじょうがに)まで、たった半日で飛んで帰ったというあの面白い旅の体験を、竹童(ちくどう)はとても忘れることができませんでした。
果心居士(かしんこじ)の前で、お使いの任務をりっぱに果たしたあと、その晩、布団に入ったものの、体はフワフワと雲の上を飛んでいるような心地がして、目をつぶると琵琶湖(びわこ)だの伊吹山だの東海道の松並木などがグルグルと回って見えてきて、いくら眠ろうとしても眠れるわけがありませんでした。
「ああ、面白かったなぁ! あんな気持ちのいい思いをしたのは生まれてはじめてだ。お師匠さまは意地悪だから、空を飛ぶ術(すべ)なんてなかなか教えてくれないけれど、おいらには『クロ』という空を自由に飛べる友だちができたから、もう飛ぶ術なんていらなくなっちゃった。それにしても、今夜のクロはどうしているだろう……天狗(てんぐ)の腰掛松(こしかけまつ)につないできたけれど、あそこで大人しく寝ているかしら。きっとおいらの顔が見たくなって鳴いているだろうなぁ」「ああ、もう一度クロの背中に乗って、どこかへ遊びに行きたい……」
「竹童、竹童」
隣の部屋で果心居士の声がします。
「はーい」
「はいじゃない、いったい何をこの夜中にブツブツと寝言を言っているんだ。なぜ早く寝ないか」
「はーい」
竹童はあわてて作りいびきをかき始めましたが、心はなかなか休まらず、かえって頭が冴えわたっていくばかりでした。
(はっはーん、竹童のやつ、鷲の背中で旅をした味をしめて、何か心にたくらんでいるな。よしよし、明日はひとつ、何か仕置いて懲らしめてやろう)
いながらにして百里先も見通す果心居士の遠知の術(おんちのじゅつ)にとって、隣の部屋で寝ている竹童の腹を読むことなどお茶の子さいさいでした。
そんなこととは露知らず、夜が明けるか明けないかのうちに、竹童は亀の子のようにムックリと寝床から首を持ち上げました。
(しめた! お師匠さまはあんなふうにいびきをかいている。いくら何でも、寝ている間のことまでは気づくまい。どれ、今のうちに思いっきり羽を伸ばしてこようか!)
細っこい帯をチョコンと結び、例の棒切れを腰に差し、昨夜食べ残した木の芽団子をムシャムシャとほおばりながら、まるで猿のようにこっそり荘園を抜け出しました。
その足の早いこと、まるで風のようです!
空にはまだ明け方の月が出ていました。あっちこっちの岩穴からムクムクと白い湯気のようなものを噴き出している、朝の霧です。
竹童のぼんやりとした影が、平地から崖へ、崖から岩へ、岩から渓流へと駆けていくうちに、その足音に驚いた狼や兎、山鳥などが、彼の足もとから右へ左へと慌てて逃げ出していきます。
いつもの竹童なら、こんなときすぐに狼を手づかみにしようとしたり、兎を渓流の中にほうりこんだりして、大いたずらをしてみちくさを食うところです。
しかし、きょうはどうしたことか、そんなことをしている暇はありません。なにしろこれからお師匠さまの朝ご飯の時間になるまでに、日本国中の半分もまわってこようという物凄い勢いなのですから。
「やあ、どうしたんだろう、いない! いないぞ!」
やがて、瘤ヶ峰(こぶがみね)のてっぺんにある、天狗の腰掛松の下にたどり着いた竹童は、ひっくり返りそうなほどトンチンカンな声をあげて、キョロキョロとあたりを見回しました。
「おかしいな、きのう帰ってきてから、この松の木の根っこにあんなに太い縄でしばりつけておいたのに、いったいどこへ飛んでいっちゃったのだろう」
すっかりがっかりして、しばらくあたりをうろうろしていた竹童は、とうとう目から大粒の涙をポロリポロリとこぼしながら、明け方の空に向かって声いっぱいに叫びました。
「クロ――ッ! クロ――ッ!
クロ、クロ、クロ、クロ――ッ!」
それでも影すら見せないので、彼はガックリと力が抜けてしまい、天狗の腰掛松にペタリと寄りかかってしまいました。しかし、ふとこの間、居士が扇子を投げて鷲を呼び寄せた幻術を思い出し、
「よし、おいらもあの術をまねしてみよう!」
竹童はもう目の色を変えて必死でした。呪文はわかりませんが、腰の棒切れを抜き、全身の力をこめて、「エイッ!」と気合を入れながら大空へ投げました。
棒はツツツッと空へまっすぐな線を描いて上がっていきます。
「やった、すごいすごい!」
竹童は嬉しさのあまり手をたたき、飛び跳ねて大喜びしました。
と見たその瞬間、谷を挟んだ向こう側から飛んでくるのは、なんとクロではありませんか! 間の谷をわずか二つ三つの羽ばたきですっと渡ってくると、投げ上げられた棒切れをパクリとくわえ、彼のすぐそばまで舞い降りてきたのです。
竹童が有頂天になって大喜びしたのも、無理はありませんでした。
二
まもなく彼は、昨夜の夢をそのまま実行し、京から大阪、大阪から奈良の空へと遊び回っていました。
町も村も橋も川も、まるでおもちゃの箱庭のような下界の地面が、みるみるうちに後ろへ流れていきます。
そのあげくにふと思い出したのは、おととい忍剣(にんけん)が言っていた言葉でした。
「そうだ! 何でもきょうあたりは、富士の裾野で大変な騒動があるはずだ。おいらはまだ生まれてから合戦というものを見たことがない。
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