初級翻訳・神州天馬侠 第43話

吉川 英治

伊那丸は太刀を振りかぶり、咲耶子は薙刀の柄を握りしめて、「八幡(はちまん)!」と叫びながら、十字架の根元を狙って斬りつけました。

その時――ほぼ同時でした。
伊那丸の軍師である小幡民部が、無二無三に馬をそこへ飛ばしてきながら、
「やあ、待ちたまえ若君! 決してそれへ近づいてはならぬ! あ、あ、あッ、危ないッ!」
と、狂ったように絶叫しました。

しかし――その警告はすでに手遅れでした。
二人の武器は、すでにザクッと十字架の陰へ向かって振り下ろされてしまったのです。
と見るまに、ああ、なんと恐ろしい罠か。足元から轟然(ごうぜん)と、怪しい火が炸裂しました。ぽかっと渦を巻く白煙とともに、空へと裂けのぼった火の柱。それと同時に、バラバラとあたりに降り注いできた火の雨――それが火なのか、土なのか、あるいは肉や血なのか、もはや目を開けて見ることもできないほどの惨状でした。

二

すさまじい雷火の焔(ほのお)がパッと立ったその瞬間、十字架の陰で「ゲラゲラゲラ」と大きく笑う声が響きました。
怪人・呂宋兵衛の目、そして口です。悪魔のような面相があざ笑っていました。
「あッ――」
伊那丸の馬は、蹄を蹴って横飛びに倒れました。咲耶子は、竿立ちになった馬のたてがみにしがみついたまま、焔の前で悶絶しました。
倒れたのは馬や人だけではありません。二尺角の白木の十字架までもが上から真っ二つに裂け、煙の中にユラリと横倒しになりかかってきました。

この雷火の炸裂は、決して奇術などではありません。怪人・呂宋兵衛が懐に隠し持っていた一塊の強薬を、祭壇に燃え残っていたロウソクの火へと投げつけたのです。
長崎や堺あたりで、南蛮人が日本人と争う際によく使う彼らの手口でした。民部はそれを知っていたので、あわてて馬を飛ばしてきましたが、一足遅かったのです。裂けた十字架が、いましもドスーンと大地に音を響かせた時でした。

「人穴の賊め! そこを動くなッ!」
民部は、駆けてきた馬の鞍から飛び降りるよりも早く、壇の上に立っている呂宋兵衛を目がけて斬りつけました。
「しゃらくさいわッ」
呂宋兵衛は民部の一太刀をひらりと受け流すと、いきなり鬼のような手で彼の右手をねじり上げました。もう懐に強薬は持っていないため、先ほどのような危険はありませんが、腕と腕、剣と剣の打ち合いにおいても、民部は呂宋兵衛の敵ではありません。

「うーむ、この小僧っ子め」
酒呑童子もかくやという形相で、大きな唇に鋭い歯を食い込ませた呂宋兵衛は、いきなり民部の利き腕をひと振りし、「やッ!」という一声とともに、壇の上から大地へと投げ飛ばしました。
「無念……」
一代の軍師である小幡民部も、腕力での勝負ではどうすることもできません。跳ね起きようとすると、早くも呂宋兵衛の山のような体がのしかかってきて、グイと喉元を締めつけました。

「おおう、てめえが伊那丸の腰巾着で、穴山梅雪を討ったという小ざかしい小幡民部というやつだな。こりゃいい首に巡り会った。山荘への土産にしてやる。覚悟をしろ!」
鎧通しを引き抜き、逆手に持って、グイと民部の首筋に迫りました。民部はそうはさせまいと、下から短剣を抜き、足をもがいて、まさに一髪の争いとなり、互いに必死の形相です。伊那丸も咲耶子も、すぐそばにいながら、先ほどの雷火に吹き飛ばされ、二人とも気を失ったままです。

「うーむッ」
もみ合っている二人のあいだから、おそろしい苦鳴が上がりました。さては民部が首をかき落とされたか、あるいは呂宋兵衛の脾腹(ひばら)がえぐられたか、どちらか一つです。

三

先に跳ね起きたのは呂宋兵衛でした。彼の左足には、一本の流れ矢が突き刺さっていました。続いて民部も飛び起きます。再び、すさまじい短剣と短剣の斬り合いが始まりました。

「やッ、呂宋兵衛、ここにいたか!」
そのとき、思いがけず駆けつけた巽小文治が、朱柄の槍をしごいて横から突き込みました。
「邪魔するなッ」
呂宋兵衛はガラリと払います。さらに突く、さらには払う。またも突き出す。この妙槍にかかっては、さすがの呂宋兵衛も弱腰になりました。
それだけではありません。強敵と見ると、加賀見忍剣、木隠龍太郎、山県蔦之助の三人が、この怪しげな物音を察して、一斉に馬を並べ、三方から野嵐のごとく馬を飛ばしてくる様子です。

「呂宋兵衛、呂宋兵衛! 汝いかに猛なりとも、袋のなかの鼠と同然だ。時が移れば移るほど、ここは鉄刀鉄壁に囲まれ、外は八門暗剣の伏兵に満ちて、逃れる道はなくなるぞ。神妙に観念してしまえ!」
小幡民部が怒鳴ると、呂宋兵衛はカッと目をいからせ、わざとせせら笑いました。
「黙れッ。汝らのようなトンボが百匹こようと、千匹集まろうと、この呂宋兵衛の目から見れば子供のいたずらだわ」
「舌の長い奴め、その息の根を止めてやるッ」
「なにを」

呂宋兵衛は立ち直って剣を鼻筋の前にまっすぐ持ち、あたかも不死身の印を結んでいるような構えを見せました。不思議なことに、小文治の槍も民部の太刀も、その奇妙な構えをどうしても破ることができません。
そこへ、同時に駆け集まった先ほどの三人。この状況を見るや、めいめいひらりと鞍から飛び降り、駆け寄りざまに叫びました。

「おうッ、巽小文治殿、龍太郎が助太刀するぞ!」
「加賀見忍剣、これにあり! いでよ、目にもの見せてくれよう!」
とばかりに、呂宋兵衛を前後から追い詰めました。さすがの彼も、ついに慌て始めました。そして一太刀も合わせることなく、ふいに忍剣の脇をくぐり抜け、疾風のように逃げ出しました。「待てッ!」
すばやくとびかかった龍太郎が、戒刀(かいとう)の切っ先を鋭く薙ぎつけると、呂宋兵衛はふりかえって、右手の鎧通しを手裏剣がわりに、
「えいーッ!」
と気合いとともに投げつけました。
龍太郎は身を沈めながら、刀の峰で、ガラリとそれをはらい落としました。
すると、どうしたことでしょう。
ピラピラと魚の鱗のような光を放って飛んできた鎧通しが、龍太郎の太刀にあたった瞬間、まるで銀の粉の袋が切れたかのように粉々に砕け散り、あたりはにわかに、月光と霧に包まれたかのようになりました。
「や、や……あやしい妖気だ」
「あいつはキリシタンの幻術師だ、みんな油断するな!」
「この忍剣にならって、邪(じゃ)を破る構えをとるのだ!」
そう言って、まっさきに忍剣が大地に体をぴったりと伏せ、地を這うようにして見渡すと、いましも黒い影がするすると向こうへ足を早めているのが見えました。
「おのれッ!」
とびついていった忍剣の禅杖(ぜんじょう)が、力いっぱい、ブーンとうなりました。
とたんに一陣の怪風が吹き荒れ、「わッ!」と叫んだのはまぎれもなく呂宋兵衛です。
たしかに手ごたえはあったようですが、彼もただ者ではありません。すばやく隠形の印を結び、縮地飛走(しゅくちひそう)の呪文を唱えたかと思うと、たちまち雷獣のように身をおどらせ、驚く人々の目の前から、一気に二、三町も遠くへ飛び去ってしまいました。
「あ、あ、あ、あ、あ!」
さすがの忍剣も、龍太郎も、その行方をただ見守るばかりでした。

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