「逃がしはしないよ!」
鋭く目を凝らしてあたりを見回した蚕婆は、ふと、七、八間(約13〜15メートル)先の暗闇の中で、何やらモゾモゾと動いている人影を見つけて、じっと狙いを定めました。
――それは紛れもなく、天井裏で膝を突かれてケガをした曲者(くせもの)が、小川の水で傷口を洗っている姿でした。
頭から足の先まで、カラスのように真っ黒な装束に身を包んだ隠密の男、すなわち徳川家から送り込まれた菊池半助その人です。
「おうッ!」
ふいに吠えるような蚕婆の声とともに、さすがは半助、足の痛みを忘れてポーンと小川を飛び越えましたが、それよりも早く、闇の中を飛んできた投げ縄の輪が無残にも全身にからみつき、ザブーンと水のなかへ捕らえられてしまいました。
鼻かけ卜斎と泣き虫蛾次郎
一
さすがは伊賀衆(いがしゅう)の三羽烏(さんばがらす)の一人、菊池半助も、可児才蔵に見破られて錆びた槍の穂先を膝に受け、そのうえ投げ縄にかかって体の自由を奪われてしまっては、どうすることもできません。
「ざまを見やがれ! 命知らずめが」
蚕婆が毒づきながら、縄で縛られたままの半助を引きずってきて、家の前にある柿の木にグルグル巻きにして縛りつけてしまいました。
「夜明けまでに、手間いらずの方法で焼き殺してやるよ。お前ばかりじゃない、この村に隠密として入り込む奴らはみんなこうしてやるのさ」
蚕婆は、やがて枯れ木を集めてきて半助のまわりに積み上げ、端の方から火を放ちました。火がメラメラと燃え上がるのを見ると、そのまま家の中へ入って寝てしまったのです。
炎が上がっても、はじめのうちは覆面や衣類が濡れていたのでしばらくは何ともありませんでしたが、やがて服が乾き、枯れ木の炎がパチパチと夜風にあおられて激しくなってくるにつれて、菊池半助はまるで地獄のような耐えがたい苦しみに襲われました。
「ア熱ッ、ア熱ッ、アアアアア!」
思わず悲鳴をあげ、必死に縄を切ろうともがき苦しみます。
――すると、その火事の光を見て、全速力で駆けつけてきたのは、鏃(やじり)鍛冶の卜斎(ぼくさい)の弟子である蛾次郎でした。
「おい、そこにいる者、早く俺の脇差(わきざし)を抜いてこの縄を切ってくれ! 早く、早く!」
「やあ、どうしたんだお侍さん? そんなんじゃ死んじまうぞ。死んじまうぞ!」
「早くしてくれ! 早く助けてくれい!」
「助けてやったら、何してくれる?」
石投げの天才ではあるものの、仕事は下手で物覚えも悪く、少し頭の足りない蛾次郎ですが、欲深さにかけては抜け目がありません。半助は一刻を争う熱さに耐えかねて、うめき声を上げながら叫びました。
「何でもくれてやるから早く! ア熱ッ、あッツツツ!」
「よし、絶対だぞ!」
念を押しながら飛び込むと、蛾次郎は枯れ木の火を足で蹴散らし、山刀(やまがたな)を抜いて半助の縄をぶっつりと切り落としました。
火の中から飛び出した半助は、ほっと一息ついて地面に倒れ込みましたが、痛む足のことなどすぐに忘れて、とっさに踊り上がりました。
「まずいところへ、またお前以外のあいつらの足音が近づいてきたぞ。おい、俺に肩を貸してくれ。そして、しばらく休める場所まで連れていってくれ。褒美は望みどおりにやってやるから!」
「じゃあ、おれのおや方の家でもいいかい?」
「頼む! あれ、あれ、もう軍馬のひづめが間近に迫っている!」
「大変だ! もしかすると雨ヶ岳(あめがたけ)に陣取っている連中が下りてきたのかもしれないぞ!」
蛾次郎も急に慌て出し、半助の体を背負うと、一目散にその場を走り去りました。
すると、まさに一歩違いで、嵐のように殺到してきた一団の軍馬がありました。
「それ、いつも怪しいあの蚕婆の家を調べ上げろ!」
「戸を蹴破って中へ踏み込めッ!」
馬の上から十四、五人の武士たちに激しく命令を下した二人の武士――それは、伊那丸(いなまる)の家来の中でも猛者として知られる「荒武者の双龍」、加賀見忍剣(かがみにんけん)と巽小文治(たつみこぶんじ)の二人でした。
「おうッ!」
部下たちが勇ましい声を上げるやいなや、蚕婆の家の裏表から、メリメリッ、バリバリッと戸を力任せに踏み破って飛び込みました。
しかし、中は真っ暗で、どこを探しても人影らしき者は見当たりませんでした。忍剣はそれを聞くと、きっぱりと言い放ちました。
「いや、そんなはずはない。たしかに怪しい男と老婆が密談していたのを、忍びの者がしっかりと見届けているのだ。こうなれば、自分自身で調べてみるしかない」
そう言って禅杖(ぜんじょう)をひっつかむと、ひらりと馬から飛び降りました。忍剣と巽小文治は家の中へ踏み込み、手分けして八方を探し回りましたが、部下の報告どおり、そこには誰の姿もありませんでした。
「不思議だな……」
小文治は、もぬけの殻となっている寝床にそっと手を入れてみて、こう言いました。
「この通り、まだ人の体温が残っている。となれば、逃げた者こそが怪しい曲者に違いない」
「うむ。ならば、寝床の脇の床板をはね上げてみよう」
忍剣が先頭に立ち、むしろを巻き上げ、板を剥がしてみると、たちまち一間四方ほどの地下への入り口が、まるで奈落の底へ続く門のように一同の目の前に現れました。
「おお、これこそ人穴城(ひとあなじょう)へ通じる隠し通路に違いない!」
「しめた! お前たちはこの入り口をしっかりと守れ。怪しい奴らが逃げ出そうとしたら、決して逃がすことなく捕らえるのだぞ」
そう言い残すと、忍剣は禅杖を抱え、小文治は槍の石突きをトンと床につくと、二人そろって真っ暗な通路の中へと飛び込んでいきました。
あとに残された部下たちは、通路の入り口に目と耳を研ぎ澄ませ、今か今かと怪しい物音を待ち構えていました。いつ何時、曲者が飛び出してくるかわからないため、夜が明けるまで一瞬たりとも気を抜くことはありませんでした。
二
菊池半助を肩に担ぎ、真っ暗な人無村(ひとなしむら)を駆け抜けた蛾次郎は、やがて大きな荒屋敷の門へと飛び込みました。
見ると、そこは鏃(やじり)鍛冶である卜斎の仕事場でした。東の隅にポッと明るい炎が見え、トンカン、トンカンと槌(つち)と鉄敷(かなしき)がぶつかり合う音が響いています。小屋の中からは、白い煙とともに、ふいごからシュッと火の粉が勢いよく吹き出していました。
「親方! お客さんを連れてきたよ。旅のお侍さんなんだけど、ケガをして困っているんだ。今夜、泊めてやってくれないかな」
蛾次郎はおどおどしながら、作業場の隣の雨戸を開けて広い土間へ入りました。手燭(てしょく)を持って奥からスタスタと出てきたのは、主人の卜斎でした。
陣羽織のような革の袖なしをまとい、鮫肌の柄の小刀を一本差しています。年は四十歳ほどで、両目は鋭く、おまけに仕事場で火傷でもしたのか、片方の鼻がそげたように欠けています。
人呼んで「鼻かけ卜斎」。その道の名人ですが、何やら一癖も二癖もありそうな人物です。
「蛾次公、昼間からどこをほっつき回っているんだ。このバカ野郎め!」
卜斎は、連れてきた半助には目もくれず、この怠け者の抜け作を頭ごなしに怒鳴りつけ、さんざん油を絞り上げました。
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