初級翻訳・「ケット」と「マット」 第2話

「ケット」と「マット」

ケットの人たちに対する「マット」の人たちについても、さまざまなことが語られています。
マットの人は、他人をだますというのです。
それはケットの人が言うばかりでなく、ほかの村の人たちも口にしており、自分にこの話をしてくれたある方は、今年で六十歳近いとお見受けしましたが、その子どものころにはマットの人が来ると、化かされないように自分の眉(まゆ)にツバをつけたものだったと話してくれました。

以上は、つい最近に数人の方から聞いた話をまとめただけで、自分自身で親しく現場を調査したわけではありません。そのため、もしかしたら聞き間違えているところもあるでしょうし、中には人から人へと伝わるうちに話が変わってしまった部分もあるかもしれません。特に、それらの話の多くは過去のものであり、今ではいわゆる「秋山だって開けたんだからなあ」という状態になっているため、実際に確かめることが不可能なものも多いことでしょう。
しかし、たとえそれが言い伝えや噂話だとしても、ごく最近に至るまで、近所の村人たちからそのように言い伝えられてきた住民が、山の中に確かに暮らしていたということは、異なる民族が一つにとけあっていく歴史の事実において、そして日本という民族がどのように成り立ったのかを考える上でも、非常に興味深い事実だと言わなければなりません。
今はただ、最近聞いたお話をそのまま忠実に記録として残しておき、さらに未来の調査や研究に期待したいと思っています。

なお、参考のために、亡くなられた吉田博士の地名辞典から、秋山谷に関するさまざまな文献の記述を、以下に抜粋して載せておきます。

『信濃の地理』にはこのように書かれています。
秋山は、信濃・越後・上野(こうずけ)の三つの州の間に挟まれた場所にある。
人々の風習は素朴で純粋であり、言葉も他とは違っている。
地面に杭(くい)を立てて、その一番上の部分同士をつなぎ合わせ、そこにカヤをかぶせて家としている。
よほどの金持ちでなければ、家に床(ゆか)は作らない。
明治八年になってから、わずかにお米を作るようになり、栗やワラビを混ぜ合わせて食べている。
その他の食べ物としては、ヒエの粉や、山の動物の肉などがある。
秋山は、箕作村(みつくりむら:現在の長野県下高井郡)から山の中へ入ること九里(約36キロ)の場所にある。
平家の落人で、勝秀(かつひで)という人が、上州の草津からこの山奥へと分け入って身を隠して住みつき、その子孫が一つの村を作ったのだとも言われている。
また、信州側から山に入っていったため、土地の形や行政の区分としては越後のエリアでありながら、今でも信州の管轄(かんかつ)になっているとも言われている。
(『雪譜(せっぷ)』や『信濃奇勝(しなのきしょう)』などの書物による)

三 「ケット」の語義

「ケット」は、今の地図では「穴藤(あなふじ)」や「結東(けっとう)」などと書かれています。
陸地測量部(国土地理院の前身)の五万分の1の地図を調べてみますと、中津川の上流にある秋成村(あきなりむら)の中で、村の役場がある場所から山を上ること一里あまりのところに「穴藤」という字(あざ:地名の一区切り)があり、さらにそこから上ること一里あまりのところに「結東」という字があります。
読み方の発音は同じなのに、集落によって使っている漢字が違っているのです。
これはもともと普通の言葉として、この山奥に住む人たちをまとめて「ケット」と呼んでいたものが、やがて集落の名前になり、それぞれの集落が別々になったことで、使う漢字も違うものになっていったのでしょう。

「ケット」という言葉の意味について、自分にこの話をしてくれたある方は、かつて自分が何かに書いた文章からヒントを得て、「ケビト」、つまり「毛人(けびと=毛深い人)」という意味なのだろうと説明してくれました。
言うまでもなく「毛人」とは「蝦夷(えみし/えぞ)」のことで、東日本において、頭の髪の毛やヒゲ、あごヒゲなどがものすごく濃い人種であったことから、この名前がつけられたのでした。
その存在ははるか昔に中国の人たちにも知られており、古い地理書である『山海経(さんがいきょう)』には「毛民国(もうみんこく)」という国の名前が出てきます。唐の時代の人たちはまさに「毛人」の二文字を使ってこれを表しており、『日本書紀』をはじめとする我が国の歴史書でも、たびたびこの文字が使われました。そして彼らがとても勇敢で素朴だったことから、奈良時代前後の人々の名前としても、非常に多くこの言葉が使われていたのです。

だいたい、アジア東方のさまざまな人種や民族の中で、これほどまでに毛深い人たちはほかにほとんど見当たりません。
中国の人、満洲の人、蒙古(モンゴル)の人、朝鮮の人、さらには台湾やマレーの人々に至るまで、みんな鼻の下やあごの下にほんの少しヒゲが生えているくらいのが普通であるのに対し、今の北海道のアイヌの人たちには、ヒゲや体毛がものすごく多いのです。
歴史上の蝦夷(えみし)たちも同じでした。だからこそ「毛人」と呼ばれ、我が日本民族の中にも、これとよく似た毛深い人たちがたくさんいます。
これは、石器時代からそのままの姿で各地に残っていた人たちや、あるいは歴史の時代に奥羽(東北)地方から「俘囚(ふしゅう:朝廷に従った東北の先住民)」という名前で、本州の内陸の国々にたくさん移住させられた蝦夷たちの血が、日本民族全体の中に広く行き渡って今に生き続けているからなのだと解釈することができます。

そして、この秋山という地方において、特別に「ケット」、すなわち「毛人」と呼ばれてまわりの人たちから差別するような目でみられた山奥の住民たちが生き残り続けたのは、里の人たちが早い段階で日本民族にとけこんで一つになった後になっても、交通がとても不便だったこの仙人の住むような山奥に、先住民族の昔の暮らしや姿が長い間そのまま保たれていたからなのでしょう。

山に住む人たちにまつわる伝説は、日本のあちこちに伝えられています。
それについては、かつて柳田國男(やなぎたくにお)君によるくわしい研究が発表されたことがあり、自分もかつて「鬼筋(おにすじ)」というテーマに関連させて、『民族と歴史』という雑誌の中で説明したことがありました。
彼らはふもとの里の人たちとは暮らしている環境が違っていて、風習や生活のしかたなどに違うところがたくさんあったため、世間の常識から外れた人たちとしても見なされるようになり、ついには天狗(てんぐ)や鬼の伝説と結びつけられ、ひどい場合には、サルに似た人間の変化(へんげ)した一種の怪物であるかのようにまで誤解されてしまうことさえあったのです。そしてそれが里の人たちとなじみ、普通の日本民族と何ひとつ変わらないものとなった後までも、時には自分たちが鬼の子孫であることを認めたり、あるいは周囲から「鬼筋(おにすじ)」と呼ばれたり、「狐持(きつねもち)」や「護法胤(ごほういん)」などと呼ばれて、不思議な神通力(じんつうりょく)を持っているかのように誤解されてしまうことさえあるのです。

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