もちろん、そうしたことがすべての人にあてはまるわけではなく、中には単に家系や血筋が少し違うというだけで、特別な伝説など何もない人たちも数多くいます。それでも、かつて山の中に置き去りにされたような先住民族がいたという伝説は、驚くほどたくさん残されています。
奈良時代の『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』には、多可郡(たかぐん)の山の中に、ふつうの人たちとは違う風習を持つ集落が二箇所あったことが記されています。
吉野の山の中に暮らす国樔人(くすびと)たちは言うまでもなく、先ほど紹介した「言葉や顔立ちがほかの国の人たちとは違っている」と言われた飛騨(ひだ)の人たちのような人々も、かつてはみなこうした仲間だったのです。
これと近い例を同じ越後(えちご)の国で見ると、魚沼郡(うおぬまぐん)に隣接して古志郡(こしぐん)という名前があります。
「古志(こし)」とはすなわち「越(こし)」のことで、大昔の越人(えつじん)たちの名前がそのまま残されたものです。
この越人というのは、ほんの最近まで千島のアイヌの人たちが「クシ」と呼ばれていたのとちょうど同じように、アイヌの仲間たちに対する古い呼び方の一つでした。
その伝説は私たちの神話の中にもたくさん織り込まれており、歴史の時代になってからも「越蝦夷(こしのがえみし)」という名前がたびたび記録に登場しています。
そもそも古志郡という名前は、こうした越の人たちがしだいに日本民族にとけこんで一つになった後までも、なお長い間この場所に残り続けていたからこそ付けられた名前なのでしょう。
これは、九州において「雑類(ざつるい)」と呼ばれた肥人(ひひと)たちが、最後まで取り残されたと思われる球磨川(くまがわ)の上流の地方に、昔は「熊県(くまのあがた)」と呼ばれ、今でも「球磨郡(くまぐん)」という名前が残されているのとまったく同じ状態として理解することができるのです。
その「越の国」では、ふつうとは違う風習に関して、他にもいろいろなことが考えさせられます。
西頸城郡(にしくびきぐん)の新井町(あらいまち)には「美守(ひだもり)」という場所があり、その北側には今、「美守村(ひだもりむら)」という村ができています。
これらの「美守」という漢字は、明らかに「夷守(ひだもり)」の書き間違いであり、古い地名辞典である『和名抄(わみょうしょう)』に出てくる「夷守郷(ひだもりごう)」というのがまさにそれにあたります。
それが果たして今の新井町の美守にあたるのか、あるいは北にある美守村にあたるのかははっきりしていませんが、「ヒナ」という言葉が「ヒダ」に変わったことには間違いありません。
そして、その新井町の西側の山あいに入ると「斐太村(ひだむら)」があり、そこには「大字・飛太(おおあざ・ひだ)」という場所があって、たくさんの竪穴(たてあな)や古墳が残されています。数年前にその古墳の一つから、東北地方の縄文式石器時代の遺跡から多く発見される「内反石刀(うちぞりせきとう)」の系統につながるのではないかと思われる内反りの石刀とともに、これまた縄文式石器時代の遺跡からときどき見つかる特殊な形をした変わった曲玉(まがたま)が発見されたのです。
そもそもこの「ヒダ」という名前は、言葉や顔立ちがほかの国の人たちとは違っていた昔の飛騨人と同じように、先住民族が山の中に残したものであり、その言葉の意味すなわち「ヒナ(夷=朝廷に従わない人々)」であり、いわゆる「夷守」とは、そうした人々に対して備えとして置かれた守備兵たちの集落(屯田兵の村)だったのであろうと考えられます。
そしてそのヒダの人たちも、いつの間にかすっかり日本民族化して、日本風の竪穴式住居に住み、日本風のお墓を作るようになってからも、中には先祖から伝わる内反りの石刀を真似て作り、先祖が大切にしていた玉を受け継いで持っていた人たちがいたのでしょう。
さらにここから西へ進んだ、西頸城郡の市振(いちぶり)の山中には、「上路(あげろ)」という集落があります。
古くからこの場所には山姥(やまうば)に関する伝説が語り継がれており、能の謡曲(ようきょく)である『山姥』の中にも取り入れられている有名な場所ですが、ふもとの里の人たちは今でもそこの住民のことを指して、いつものように「目の色が違う」「言葉が違う」などと言い合っています。
古い歴史書である『人国記(じんこくき)』の陸奥国(みちのくのくに)の項目には、「この国は日(ひ)の本であるから、肌が色白で、目は青みががかっている」などとも書かれており、昔から目の色は人々の注目を集めるものだったらしく、今でも青森の南部や津軽のあたりでは、「何々という村はアイヌの子孫だから茶色い目をしている」とか、「金色の目をしている」といった話をよく耳にします。
しかし実際には、そう言っている本人たちの目もまた茶色かったり金色だったりすることが少なくありません。
あるいは昔は、そうした違いがはっきりと見分けられた時代があったのかどうかは分かりませんが、今日ではあらゆる人々の血が混ざり合って、そうした区別はほとんどなくなってしまうのが普通です。
斐太といい、上路といい、その地名や昔からの言い伝えには、先住民の名残(なごり)の匂いがそこにしっかりと残されているのです。しかしそれは、ただ斐太や上路の集落だけに限られたものではなく、西越後から信濃(しなの)、越中(えっちゅう)、飛騨にかけての、いわゆる「日本アルプス」を真ん中にいだく一帯の山地には、今の台湾の東部山地に先住民族が昔のままの暮らしを保っているように、かつては異なった民族の人たちが少なからず取り残されていたのでしょう。
そして、その一方ではいわゆる飛騨人の存在が認められ、もう一方では上路の山姥や、信州の戸隠山(とがくしやま)の鬼に関する伝説なども生まれることになったのだと考えられます。
しかも、これはこの地方だけに起きたことではなく、他の山あいの地域においても、かつてはまったく同じ現象が見られたことに違いありません。
そしてその一つの例として、いわゆる「ケット」という名前は、それが「毛人(けびと)」を意味しているという点において、私たちの興味を最も強く惹きつけるものなのです。
奥州(おうしゅう)の北部の海岸には、蝦夷(えみし)と呼ばれ、アイヌと呼ばれた人たちの集落が、江戸時代に至るまでたくさん取り残されていたことは、すでに述べたとおりです。
そもそも彼らは、その土地が海によって隔てられていて他の場所との往来が少なかったことと、もう一つは豊かな漁のおかげで、他の人たちからの脅威を受けることもなく、穏やかに生活することができたために、長い間自分たちの固有の暮らしぶりを続けることができたのでした。
しかし、これに対して、山の中にまで蝦夷の生き残りがいるという話は、あまり伝えられていなかったのであります。考えてみると、津軽(つがる)のほうでは戦国時代のころから、おそらく慶長(けいちょう)のころにかけても、平野部にアイヌとして認められる人たちがまだ残っていて、いわゆる「蝦夷荒(えみしあら)」というものについての事実が語り継がれていました。
初級翻訳・「ケット」と「マット」 第3話
「ケット」と「マット」
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